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安定を求め選んだ仕事で挫折、失踪。
準備していても仕方ない、やりたいことをやれ!

漫画家 中川 学

2人間はいつ死ぬか分からない

実家に戻ってからはアルバイトを転々としていました。
29歳のとき、教育委員会で働いていた父が、小学校の特別支援学級の臨時教員の仕事を紹介してくれました。
100%コネです(笑)。
こんな僕に務まるのかと思いましたが、せっかく勧めてくれたので働き始めました。
仕事は自閉症の子どもにマンツーマンで勉強を教えること。
毎日が充実していました。
初めて教員の仕事にやりがいを感じました。

その年の大晦日、仕事を頑張った自分へのご褒美にと札幌の風俗店に行きました(笑)。
サービスを受けていると、後頭部にバットで殴られたような痛みが走り、ベッドにうずくまりました。
全身から吹き出す脂汗。
すぐに救急病院に運ばれました。
病名はくも膜下出血。
生死の境をさまよいました。

なんとか手術は成功し、1ヶ月後に退院。
幸い後遺症はありませんでした。

くも膜下出血を経験してから、「人間いつ死ぬかわからない」と思うようになりました。
教員の仕事にもやりがいを感じていましたが、「本当に好きなことをを今すぐ始めなければ!」と思いました。
自分が本当に好きな映画作りに取り組もうと考えました。
でも作るには多額の費用と人員がかかるのですぐに始めるのはなかなか難しい。
そもそも自分は映画作りのどこに魅力を感じているのだろう。
考えてみると、「ストーリーを作り、それを表現すること」だと気づいたんです。
「それって映画ではなく漫画でもできるな」と思いました。
漫画ならお金も人もそんなにいらない。
それに今までにも遊び程度ではあるけれど描いたことがある。
「これだ!」目の前がパッと開けました。

その後はいろいろな漫画誌の新人賞に応募しました。
でも鳴かず飛ばずでした。

本格的に漫画を描き始めてから3年がたった頃、広告漫画などを扱う北海道の出版社から、「良かったらうちのホームページで描いてみませんか?原稿料は出ないけれど、広告関係の方がよく見ているので、広告漫画の仕事につながる可能性はありますよ」とオファーを受けました。
とてもうれしかったです。
もちろん快諾しました。
初めてアップされたのを見たときは興奮しました。

それから1年後、少しだけ自分の漫画に自信を持った僕は、東京に行ってみようと思いました。
地方でくすぶっているよりも、思い切って上京した方がチャンスが広がると思ったからです。
早速住むところをネットで調べてみました。
すると、漫画家志望の若者に格安で住居(シェアハウス)を提供するNPO法人「トキワ荘プロジェクト」が目にとまりました。
「漫画家志望者、格安住居…。自分のためのプロジェクトじゃないか!」。
僕はすぐに応募しました。
そして、審査を通過し2010年に上京しました。

トキワ荘プロジェクトでは、入居してから3年以内に商業誌に掲載、単行本発売などなんらかの成果をあげないと強制的に退去させられるルールがあったので、必死に作品を描きました。

初めはフィクションを描いていたのですが、なかなか結果が出ませんでした。

ある日、知り合いの編集者さんに昔描いたエッセイ漫画を読んでもらう機会がありました。
彼は「これ面白いですよ」と言ってくれました。
そこから話はトントン拍子に進み、孤独な大人が本気で友だちづくりに挑戦するエッセイ漫画『僕にはまだ友だちがいない 大人の友だちづくり奮闘記』でデビューすることができました。

次は
3. 準備しているうちに死ぬかもよ
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