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安定を求め選んだ仕事で挫折、失踪。
準備していても仕方ない、やりたいことをやれ!

漫画家 中川 学
目次
  1. 仕事を投げ出して失踪
  2. 人間はいつ死ぬか分からない
  3. 準備しているうちに死ぬかもよ

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、漫画家の中川学さんをご紹介。

安定のために選んだ教員の仕事を放り投げ、失踪した経験を持つ中川さん。くも膜下出血を経験して生死の境をさまよったときに「人間はいつ死ぬかわからない。やりたいことをやらないとダメだ」と思い、漫画家の道へ進みます。中川さんが人生で大事にしている価値観とは。お話を伺いました。

1仕事を投げ出して失踪

中学生のとき、先生に「親から自立するには、今から準備をしないとダメだ。将来どうするか、今からきちんと考えなさい」と繰り返し言われました。
僕は「今から準備しておかないと、将来大変なのか…」と、不安になりました。
不安を払しょくすべく勉強に打ち込みました。

教師を目指し、釧路にある教育大学に進学しました。
公務員という安定を求めた結果です。
大学では勉強はそこそこに、好きな映画ばかり観ていました。
観るだけでは飽き足らず、『Shall we ダンス?刑事』という作品を作ったこともありました。

大学2年生のとき、映画作りへの想いが募り、学校を辞めて横浜の映画専門学校に行こうと思い立ちました。
その旨を父と母に伝えたところ、「映画業界は堅気の世界ではないんだよ」と猛反対。
僕も言ってはみたものの、その世界でやっていく自信はどこにもなかったし、田舎で育った自分にとっては夢のような世界だったので、すぐにおじけづき、専門学校に行くのは諦めました。

大学在学中に教員採用試験を受けたのですが、不合格。
卒業後、半年ぐらいは家でゴロゴロしていました。
当時は就職氷河期で、周りの友だちも教職に就けない人が多かったので、そんなに焦りはありませんでした。
臨時教員の登録をして、学校側からのオファーを待ちながら、正式な教員になるための勉強をしていました。

25歳のとき、網走の中学校に数学の臨時教員として赴任しました。
赴任後に、前任のベテランの先生は心の病で退職したと知り、「ペーペーの自分にこの学校が務まるのか…」と一気に不安になりました。

不安は的中しました。
生徒がまともに僕の授業を聞いてくれないのです。
授業崩壊です。
学校で数学担当の教師は僕ひとり。
全生徒の数学の学力は自分の肩にかかっていました。
すごいプレッシャーでした。
それだけでなく、バスケットボール部の顧問も任されました。
授業の準備は忙しい、「中川先生の授業はよくわからない」と生徒の保護者には指摘される、バスケットボールの審判の勉強はしなくてはならない、慢性的な首肩の張り…だんだんと精神的に追い込まれていきました。

そんな生活が数ヶ月続いた頃、心身ともに限界になり、「風邪を引いた」とウソをついて学校を休みました。
その後無断欠勤。
もう学校には行きたくありませんでした。
無断欠勤から数日後の早朝、「探さないでください」という書き置きを残し、誰にも行き先を告げずに住んでいた教員宿舎を飛び出し、失踪しました。

車でしばらく走った後、それを駅に乗り捨て、駅からは電車や船を乗り継ぎ、東京に向かいました。
東京から好きな映画「時をかける少女」の舞台である広島の尾道へ行き、ロケ地を巡りました。
次はどうしようかと財布を見ると、所持金が残りわずか。
「もうこれまでだな」と滞在先のホテルでドアノブにタオルをくくり、そこに首をかけました。
でもすぐに止めました。

その後、東京で大学生をしている弟のところへ行きました。
ホームレス生活に入る前に会っておこうと思ったのです。
弟に会い、失踪の話をしました。
すると弟は笑って一言、「兄ちゃんやってるねー」と。
なぜかその姿を見たとき、「実家に戻ってみよう」という気持ちになったんです。

実家に戻ると両親が「おかえりなさい」と全く怒ることなく僕を受け入れてくれました。
親の愛を感じました。
両親、赴任先の先生方、生徒たちには、多大なご心配とご迷惑をかけてしまい、本当に申しわけない気持ちでいっぱいでした。

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2. 人間はいつ死ぬか分からない
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