1誠実で的確なプロの姿に感激
元々スポーツが大好きで、中学でソフトテニスをはじめました。
どんどん好きになり、もっと上手くなりたいと、ソフトテニスの強い福岡県の高校に進学。
長崎県の実家から離れて、寮生活を送りました。
三年生のときには、キャプテンに任命されました。
チームメイトと意見がぶつかったり悩みも多かったです。
何よりも、自分はキャプテンだから絶対にインターハイに出場しなければならないとのプレッシャーがつらかったです。
不安でいっぱいだったものの、寮ではケータイの所持が禁止だったので、気軽に誰かに相談もできませんでした。
どんどん不安や苦しさが募り、鍋の蓋がカタカタと鳴って、沸騰したお湯がいまにも溢れそうな、そんな精神状態になりました。
もう耐えられないと、寮にある公衆電話で幼なじみに電話。
はじめて「帰りたい」と、弱音をはきました。
「いやいや、もう少しだろ。がんばれよ」。
そんな励ましがあると思いきや、返ってきたのは意外な言葉。
「おお、いつでも帰ってこいよ」でした。
幼なじみは、私の弱さや苦しみを、そのまま受け入れてくれたんです。
その言葉に、鍋からいまにも溢れ出しそうだったお湯が、すっと引き下がって。
話を聞いてもらったおかげで、心が軽くなり、部活をやりきることができました。
高校卒業後は、都内の私立大学のキャリアデザイン学部に進学。
ある日、課外授業で出版業界に勤めている方とお話ししたところ、モデルの誘いを受けました。
モデルの仕事自体には興味がなかったものの、メディア関係の仕事には興味があり、せっかくいただいた機会だからやってみようとプロダクションに所属。
大学卒業後はそのままモデルの道に進みました。
モデルの仕事は立ち位置が1cm変わるだけでも、写真の印象が大きく変わる繊細な世界で難しさを感じました。
特に苦しかったのは、自分の本当の気持ちを伝えられない点です。
広告モデルの仕事では、ときには、自分自身が抱いた感想とは違うメッセージを伝える場合もあり、モヤモヤした思いを抱えました。
事務所の力ではなく、自分の力で仕事を決められるようになりたいと、退所を決意しました。
退所後は、イベントの司会やFMラジオのアシスタントなど、話す仕事をいただける機会が増えました。
その中で、自分が本当にやりたかったのは、モデルではなく、「自分で見たものを自分の言葉で伝えること」だと再認識。
アナウンサー事務所のオーディションを受け、合格をいただき、所属が決まりました。
スポーツ業界を中心に仕事をいただく中で、パラアスリートにインタビューする機会が増えました。
そんな中、東京オリンピック、パラリンピックの開催が迫ってきました。
ただ伝えるだけでなく、もっと内側からサポートする仕事ができないかと考えるようになり、パラリンピックを支援する団体へと転職しました。
これまで正社員として組織に所属した経験がなかった私にとっては、全てが新鮮なことばかり。
新しい挑戦や、パラアスリートの支援といった自分のやりたい仕事ができて、楽しい反面、苦しいことも多かったです。
これまでのモデルやアナウンサーの仕事は、毎日違う現場に行き、違う人と仕事をする機会が多く、言ってみれば「初対面のプロ」でもあります。
しかし組織で働くと、同じ人たちと毎日顔を合わせます。
これまで仕事において誰かと深く関わってきた経験が少なかったので、どうやって人間関係を構築すればいいのかわからず、苦悩しました。
追い打ちをかけたのが、新型コロナウイルス感染症の拡大でした。
開催自体が危ぶまれて目的を見失い、メンタルと体が限界になってしまいました。
軽度ではありますが、適応障がいの症状も出たため、志半ばで退職しました。
退職後、失業保険の申請でハローワークに向かいました。
そこで働く職員さんたちの姿が、すごく素敵だったんです。
「ここがわからなくて」と聞くと、すぐに的確な答えを与えてくれますし、誰に対してもフラットで誠実。
ハローワークに来る人たちは年齢も事情もさまざまですが、一人ひとりに対して、適切な対応をしていました。
制度や法律などをたくさん勉強してきたからこそ、困っている人たちに寄り添えるのだと思いました。
ハローワークの職員さんたちの姿に、自分にはなかったかっこよさを感じました。