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当たり前がいつでもあるとは限らない。
絵を通じて、誰かの背中を押していく
【絵本作家/外資系アパレル企業・小菅将幸】

目次
  1. 当たり前のレールは、本当に当たり前なのか
  2. 自分の経験を伝えて、希望を与えたい
  3. 生きている間に届かなくてもいい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、外資系企業に勤めるかたわら、画家をめざして活動をする小菅将幸さんをご紹介。

28歳で大学受験をしたり、難病を患ったりなど、一般的なレールからは外れた人生を歩んできたと言います。そんな小菅さんが次なる人生の使命として画家を目指すようになった背景とは。お話を伺いました。

1当たり前のレールは、本当に当たり前なのか

中高はサッカー部で、部活に打ち込むごく普通の学校生活を送っていました。
このまま大学に進学して就職する。
そんな敷かれたレールに沿った、ごく普通の未来を思い描いていました。

17歳のとき、突然倒れて、救急車で運ばれました。
検査で病院を転々としましたが、原因は不明。
入院すらできず、家で寝たきりの状態になりました。
ご飯も食べられず、水しか飲めない毎日。
手も上がらなければ、歩くこともできません。
暇だからテレビを見ようにも、目すらよく見えず、何もできない状態になりました。
これまでの当たり前が、当たり前ではなくなったのです。

当時は携帯電話もなく、両親は共働きで、家で一人きりの状態。
考え事ばかりしていました。
始めは「なんでこんなことに」と怒りを感じていました。
しかし、1年ほど経つと、徐々に受け入れられるように。
病気と共存し、共に生きていこうと考えるようになりました。

すると、少しずつ体調は回復。
いつしか歩けるようになって、ごはんも食べられるようになりました。
「歩く」「食事をする」など、誰もが当たり前にできていることに、生きている喜びを感じました。

元気になってきたことで、社会に復帰したいとアルバイトに応募しました。
でもやっぱり体がもたなくて。
アルバイトを始めては辞めることを何度も繰り返しました。
母からは、「無理に働かなくてもいいよ」と言われました。

だからといって行き場もありません。
ずっと家の中で孤独を感じていたため、人との繋がりを欲していました。
そこで、原宿で真っ黄色のロングコートで、ピンクのロン毛でずっと座ってみることにしたんです。
もともと、派手なファッションを好んでいたわけではありません。
むしろ地味な方でした。
ただただ、「僕はここにいるんだ」と発信したくて、その手段がファッションしか思いつかなかったんです。

すると「何それかっこいいじゃん」と声をかけてくれた人がいました。
自己表現をしたことで、友達がどんどんできて。
今まで社会と断絶していた状態から、ファッションを通じて人と繋がることができ、喜びを感じました。

ファッションで語り合える仲間が増えるうちに、自分もファッションの仕事をしてみたいと、カメラを始めました。
カメラマンとして仕事をした後は、フリーペーパーの編集業務にも従事。
社会との接点が徐々に増えて、その縁から25歳で広告代理店に入社しました。
会社員として、成果が出せるようになりました。

社会人時代に撮影した一枚

社会人時代に撮影した一枚

ある日、ふと「あれ、俺ってなんで働いているんだろう」と疑問に感じました。
ファッションが好きという理由で始めた仕事のはずが、目の前の業務に追われてばかりになっていたことに気づいたんです。
社会のレールから外れたはずが、いつの間にかレールに逆戻り。
せっかく授かった生命として、このままでいいのだろうかと悩むようになりました。

よく考えてみると、自分はみんなが当たり前としてきた社会を知りません。
ファッションには詳しいけれども、合コンに行ったり、海に遊びに行ったり、ごく普通の青春時代が抜けています。
でも別に、10代や20代前半しか青春ができないわけではありません。
このレールは誰が作ったんだろう、そもそも世界はどうやって作られているのだろうと疑問を持ち、それを学ぶためにも大学に行きたいと考えました。

しかし今から最短で入学しても28歳。
周囲からは、大学に入っても就職ができないと反対されました。
ウェブ上で相談しても「やめたほうがいい」という意見ばかりでしたね。
検索しても、昼間に28歳で大学に入学した人は誰も見つかりませんでした。

でも、僕の中ではある疑問が生まれたんです。
みんな「就職できないよ」「友達できないよ」と言うけれど、本当にそうなのだろうかと。
自分は病気を通じて、当たり前が当たり前でないことを知りました。
前例がないのであれば、自分がパイオニアになってやろうと、大学受験を決意しました。

結果、無事合格。
入学して2日目に大学のキャリアセンターに向かい、「僕は今、28歳で卒業時は32歳なんですけれど、就職先ありますか?」と聞きに行きました。
すると、「厳しいと思う」と言われたんです。
本当に無理なんだなと落ち込むも、もし僕がここで頑張れたら、僕のほかに大人になってから大学進学を考える人にとっての希望になれるのではないかという思いが芽生えました。
自らがパイオニアとなると決意した大学生活では、順調に友人もでき、仲間と共にファッション関係の起業をするなど、充実した毎日を過ごすことができました。

大学3年生のとき、自分も新卒で就活できるだろうかという思いから、就職活動を始めました。
すると、10社中6社から内定をもらったんです。
「就職できない」と散々言われていたけれど、なんにでもなれるんだなと感じましたね。
結局、起業した会社を畳むことに決めたこともあり、ファッションに特化した広告代理店に就職を決めました。

2自分の経験を伝えて、希望を与えたい

大学4年生のある日、学食でカレーを食べているときのこと。
病院から健康診断の結果について電話がきました。
「肺に影がある」と告げられました。
一度大病を患ったのもあり、どこか冷静で、「ああ、またか」という思いでした。

検査すると、サルコイドーシスという5万人に1人の難病にかかっていると言われました。
その病気には、治療法もありません。
死ぬ可能性すらもあるとのことでした。
ごく普通の社会人生活や、大学生生活を送っていたのもつかの間、やっぱり、当たり前は当たり前ではなかったことを実感しました。

闘病中の小菅さん

闘病中の小菅さん

毎日38度くらいの熱が続き、節々が痛くて動けない日々が続きました。
病棟にはがんと闘う患者さんがいて、ときには不幸を目の当たりにすることも。

ある日、「もし死ぬ可能性があるなら、病気なんて無かったことにしよう」と思い立ち、病気になっていることを忘れるため石垣島に旅行に行きました。
1ヶ月くらい滞在するうちに、現地の人と仲良くなり、フェリーの切符を切るアルバイトもしました。
すると、いつの間にか自分の体が軽くなってきていることを感じたんです。

旅から戻ると、定期健康診断で数値が良くなっていると言われました。
驚きましたね。
このまま病気が回復すれば、いま、同じ病気で苦しんでいる人たちに少しでも希望を与えられるのではと思いました。

その後、入社した広告代理店で働くうちに、医師からは病気の寛解を告げられました。
長かった闘病がやっと報われたような気持ちがして涙が溢れました。
支えてくれた家族にお礼を言い、いよいよ自分の経験を伝えて、同じような悩みを持つ人たちの力になるため動くことにしました。

では、どうやって伝えるか。
この難病にかかっているのは小さなお子さんを持つお母さんが多いことから、絵本が良いのではと思いつきました。
そこで、作品作りに取り掛かり、33歳のときに1作目の絵本「らいふいず」を出版しました。

34歳では2作目の絵本「28才大学生」を出版しました。
大学に入りたいと悩む20代や、難病に苦しむ人たちにとって、参考かつ希望になる体験談を届けて、当たり前のレールから外れても大丈夫だと伝えたかったんです。
すると同じ境遇の人たちから、大きな反響がありました。
伝えたことで、誰かの励みになっていることを実感しました。

絵本を書き終わった頃、お世話になったファッション関係の友人が外資系企業で活躍していることを知りました。
ふと、「こんな自分でも外資系に行けるのかな」と疑問を持ちました。

周りに意見を求めると、「留学経験も無い人には難しい」という声ばかりでした。
この領域でも、自分が挑戦する姿を見せることで誰かの後押しになるのではないか。
そう考えて転職活動をし、その結果、無事内定をもらうことができました。

入社してすぐにアメリカに赴任。
外国は、文化が全然違って面白かったですね。
自分はこれまでも「当たり前とはなにか」を考えて生きていたけれど、日本の当たり前は世界から見れば特殊なこともあります。
視野がどんどん広がってきました。

これまでの人生、僕は何度もレールから外れて、それでも生き続けてきました。
自分が見たもの、感じたものを伝えることで、当たり前にとらわれて、レールから外れることに悩んでいる人たちに気づきを与えることが、自分の人生における使命なのではと感じるようになりました。

これまでは伝える手段として「絵本」を用いてきました。
しかし次は、「絵」を用いたいと考えました。
絵は、見る人によって捉え方が全く異なります。
気づきの幅が広がるのは絵です。
今後は画家として、誰かに気づきを与える仕事ができればと考えるようになりました。

3生きている間に届かなくてもいい

現在は、外資系ファッションブランドに勤めながら、画家を目指して油絵を描いています。
文化というものは、栄養です。
仕事や家庭だけだと、栄養が偏ってしまいます。
そこにアートやファッションなどのスパイスが入ると、人との繋がりが生まれたり、気づきが生まれたりして、人生はもっと楽しくなると思います。
その手助けとなることが、僕の願いです。

絵は、自分が意図しない色は入らないし、線も入りません。
自分が想像したものしか、生み出すことはできないのです。
常識にとらわれていると、普通の線にしかなりません。
自分の中の固定観念や原点を見つめながら、その常識を一つひとつ外していく作業が必要となります。
ある種の瞑想をしているような、そんな時間を過ごしています。

絵を描くことで、自分自身も勉強になります。
たとえば、畑について描くとき、「畑はどうなっているんだろう」「畑はそもそもどうして生まれたんだろう」と、どんどん歴史を遡って文脈を学んでいきます。
その知識が自分の中にストックされるのも面白いですね。

このように自分なりに絵への哲学を持って臨んでいるものの、絵には貴賤はありませんし、絶対的な解もありません。
比較するのはナンセンスです。
ファッションだって同じ。
みんな違ってみんないいと思います。

作品との一枚。題名は「天舞」

作品との一枚。題名は「天舞」

画家として生きていきたい思いはありますが、ゴッホの絵は彼の生前、1枚しか売れていません。
ゴッホがそれでも絵を描き続けたのは、自分の中に見えている世界、伝えたい世界があったからだと思うんです。

僕も、28歳の時に大学生になりたい、34歳で外資系に行ってみたいとチャレンジしてきました。
その結果、当たり前のレールから外れても、やっていけるんだと自分自身で証明してきました。
当たり前にとらわれている人たちに、当たり前なんてないんだと伝えられるような存在になりたいですね。

描くことが誰かのためになるのか、今は分かりません。
生きている間に届くかも分かりません。
でも、僕にとっては今生きているだけでも奇跡。
富や名声を望んでいるというよりは、自分が得たものを誰かに分かち合いたいと思っています。
誰か一人でも、自分の絵を見て何かを感じて、何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2022年2月)のものです

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