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「生きているだけで花丸」と伝えたい
半径3メートル以内の世界を変える
【メンタルなんにんもいる人・haru】

目次
  1. 「死にたい」を抱え続けてきた
  2. だから生きづらかったのか
  3. 「生きているだけで花丸」と伝えたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、「メンタルなんにんもいる人」として活動するharuさんをご紹介。

子どものころから生きづらさを抱えてきたharuさん。10代後半からの行動によって、生きづらさの原因が少しずつ判明していったと言います。「死にたい」を抱えて生きてきたharuさんが伝えたい思いとは。お話を伺いました。

1「死にたい」を抱え続けてきた

女性の体で生まれましたが、女の子向けアニメやオシャレに興味が持てず、戦隊ものが好きな子どもでした。
なんとなく「これは自分の心が成長し切れていないからだ」と思い、いつか女の子になれると思っていました。
赤いランドセルを背負う小学生になったら、制服を着る中学生になったら、女の子になれるはず。
しかし、そんな日は訪れませんでした。
「いつか女の子になれる」と一緒に、「死にたい」気持ちも大きくなっていきました。
漠然と生きづらさを抱え続けていたんです。

中学生になり、記憶が飛ぶことが増えました。
頭の中で声が聞こえ、知らない間に時間が過ぎている。
誰にでもあることなんだろうなと思っていました。
「死にたい」気持ちは消えず、うつ病の診断を受け通院することになりました。
ある日、病院でもらっていた薬を大量に飲み、入院。
そのまま不登校になったんです。
カウンセラーにお世話になっていましたが、それとは別にただ話を聞いて受け止めてくれる大人がいたらなとも思っていました。

卒業後、理系が好きで高等専門学校に進学。
死にたい気持ちは収まらず、夏に「どうせ死ぬなら、その前に一回あがいてみよう」と、どうすれば生きやすくなるのか自分と向きあってみたんです。
生きづらさを生んでいるのは生まれ持った性別への違和感ではないかと思いました。
ドラマで見て性同一性障がいの知識はありましたが、認め切れなかった。
女の子になれると信じていたい気持ちがあったんです。
でも、どうしてもなれない。
これはもう無理なんだと現実を受け入れました。

その最初の一歩として医学的な診断が必要だと考え病院へ。
予想通り「性同一性障がいです」との診断を受けました。
その後は学校とも協議を重ね、男性として普通に通学できるようになりました。
無理だと思っていたことも、動くことで変えられる場合があるんだと思いました。

2だから生きづらかったのか

記憶が飛ぶことが増えるにつれて、授業の出席日数がギリギリになってしまいました。
記憶のない間、私は教室にいなかったらしいんです。
担任の先生に心配され、病院に行くよう勧められました。
他の人は頭の中で声がしないのか、時間が飛んだりしないのかと衝撃を受けました。

事情を知った先生からの「診断名が出れば配慮できるから」との声を受けて病院へ行った結果、解離性同一性障がい、いわゆる多重人格だとわかりました。

他にも、お医者さんからはいろいろな話を教えてもらいました。
頭の中でしていた複数の声は別の人格ものであり、彼らを「交代人格」と呼ぶこと。
記憶が飛ぶのは、交代人格が表に出ているから。
授業の出席日数がギリギリになっていたのは、交代人格が教室で授業を受けずに図書館で自主勉強をしていたり、他にも授業を抜け出して別の場所に出かけていたりしたからだとわかりました。

インターネットで症状を調べる中で、解離性同一性障がいには偏見や差別があると知りました。
自分でも自分が嘘をついているのではと疑ってしまい、受け入れがたかったです。
とはいえ、すでに日常生活に支障が出ているのは事実。
受け入れるしかありませんでした。

高等専門学校を卒業後は、2年間専攻科に通うと大学院に進学できます。
勉強を続けたいと入ってはみたものの、3日で飽きてしまい、塾のアルバイトだけをしている状態。
どうにかしなければと思っていたとき、たまたま自分について話すイベントに出ることになりました。

自分をキャッチーな言葉で表したいと思い、考えたのが「半径3メートル以内の世界を変える」です。
病院に行ったり学校に打診したりして、小さくとも世界を変えられてきました。
両手を伸ばした長さは、およそ1.6メートル。
半径3メートルは、腕を伸ばしてちょっと届く範囲です。
全部は変えられないから、せめて「ちょっと先にある世界」を変えたい。

その連鎖が続いていけば、世界も変わっていくかもしれないと思いました。

イベントで実際に使ったスライド

イベントで実際に使ったスライド

アルバイトしかしていない状況をなんとかしようと、インターンシップを始めました。
放課後デイサービスを経営している会社で、事業内容に惹かれたんです。
エンジニアになりたいと入社しましたが、うまく仕事ができませんでした。
8時間椅子に座って集中し続けるのは難しく、休憩を取るタイミングもつかめない。
社会人が向いていないのではと悩んでいたところ、通院先の医師から勧められて診断を受けるとADHD(注意欠陥多動性障がい)だと分かりました。

自分の生きづらさが、ようやく腑に落ちました。
解離性同一性障がいだから物忘れが激しいと思ってきましたが、ADHDも関係していたと知って、対処法も考えられるようになりました。
交代人格と協力しながら、メモを残すなど工夫していきました。

今の仕事が向いておらずどうしようと思っていた会社では、上司から「子どもが好きなら、保育士資格を取ってみたら?」と言われました。
学校に通わずとも学べるのかと勉強を始め、のめり込んでいきました。

2018年秋、心理学を学ぶために通っていた通信制大学で、コンテストがありました。
そのころ、若い子が今の自分の気持ちやつらさを自由につぶやけるアプリがあればいいのになと漠然と思っていました。
そのアプリをコンテストに出してみたらいいんじゃないかと思ったものの、プログラミングに精通していなかったこともあり、アプリ作りに着手はしませんでした。

しかし、気づくとアプリが出来上がっていて、リリースの直前を迎えていました。
交代人格たちがプログラミングやデザインをし、完成させていたんです。

「cotonoha」の説明が掲載されているチラシの一部

「cotonoha」の説明が掲載されているチラシの一部

アプリの名前は「cotonoha」。
アプリでは、10代、20代が自由に、今の自分のつらさをそのまま言葉にできます。
さらに、cotonohaのメンバーから「いいんだよ」「生きているだけでがんばってるんだよ」と受け止めてもらえる。
これは中学生のときの自分がほしかったものです。

3「生きているだけで花丸」と伝えたい

現在は、cotonohaの運営を続けながら、放課後デイサービスの会社で社会福祉士として働き、同じ会社の別事業のシステムをエンジニアとして作ってもいます。

cotonohaではオンラインだけでなく、オフラインの拠点もつくることにしました。
新型コロナウイルス感染症の流行で完全リモート勤務になったとき、私は体調を崩してしまい、同じように子どもたちにもオンライン、オフラインの向き不向きがあるかもしれないと思ったんです。
10代にとって学校と家以外のサードプレイスとなり、20代にとってシェアハウスになるような場を作ろうと、物件探しとクラウドファンディングの準備を進めているところです。

私は「死にたい」と苦しむたび、交代人格から「生きているだけで花丸」と伝えられ続けてきました。
そうして生きてこられたからこそ、今度は私が出会った誰かに「生きているだけでいいんだよ」と言葉や姿勢で伝えていきたいと思っています。

一人の人間が社会や世界といった大きなものを変えるのは難しいですが、今関わりのある人には影響を与えられるはず。
今後も「半径3メートル先の世界」を変えたいです。
生きているとしんどいこともあるけれど、何かいいことが起こる可能性が1%でもあるなら、その可能性に賭けてみてほしい。
「私も死なないようにがんばるので、みんなもとりあえず生きてみよう」そう伝えていきたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2022年1月)のものです

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ご協力ありがとうございました
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