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見つけた居場所は、嫌いだった故郷。
日本一の塩で青ヶ島を未来へ残す
【株式会社青ケ島製塩事業所代表・山田アリサ】

目次
  1. 島が居場所かもしれない
  2. 塩づくりに人生を賭ける
  3. 「ひんぎゃの塩」を日本一に

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、青ヶ島製塩所で塩づくりを行いながら、島の魅力を発信し続けている山田アリサさんをご紹介。

幼いころ大嫌いだった島を一度は離れた山田さんですが、塩に魅せられ、青ヶ島を未来に残す活動を行っているそうです。山田さんが塩づくりを通して作りたい世界とは。お話を伺いました。

1島が居場所かもしれない

東京都の離島、青ヶ島村で生まれました。
人口200人ほどの小さな村です。
教師だった両親はこの島に赴任し、知りあって結婚しました。
当時の島は、ほとんどの家が自給自足の生活で現金収入のある家は本当に限られていました。
我が家もその限られた1軒でした。
島は「みんな知りあい」の小さなコミュニティ一で、噂話も多く、そんな環境を息苦しく感じてました。

小さいころの山田さんを撮影した一枚

小さいころの山田さんを撮影した一枚

私が小学生のとき八丈小島の集団離島がきっかけとなり、青ヶ島を卒業した若者たちが島に大勢帰ってきました。
飲み屋などはない時代だったので、皆、よく私の家に集まって、父と宴会をしていました。
彼らは島の未来について話し始めるとどんどん熱くなり、普段はシャイで目も合わせないような人たちなのにお酒が入ったときは威勢がよくなる。
幼い私にはそんな風に思えて「大人になりたくない」と思うようになりました。

しばらくして、教職員と青年団による青ヶ島の歴史を題材にした劇が上演されました。
そこで見た大人たちの演技に目が釘付けになりました。
真剣に一生懸命お芝居をしている姿は、酔っぱらっていたときの姿とはまったく別人で、初めて「大人ってすごい」と感じました。
高校進学のために島を出ても島で観たお芝居が忘れられず、卒業後は役者になりたいと思っていましたが、母に言われるままに教員免許が取れる短大に進みました。

それでも演劇への情熱が忘れられず、高い倍率の試験に挑戦。
合格し、大手劇団の養成所に入りました。
その後は縁あって東京の劇団に籍を置かせてもらいながら、いつか役者で生活をたてていくのを夢見ながら勉強していました。

そんな生活で10年ほど経ったとき、後年、東京で一緒に暮らしていた母が亡くなりました。
父もずっと以前に他界していたので、一人っ子の私は実家の片付けをするために、いったん島に帰りました。
久しぶりの故郷で広がっていたのは、昔と変わらない光景。
相変わらず船は来なくて不便だし、人と人との距離も近い。
「ああ、やっぱり何も変わっていないな」
昔の記憶がよみがえってきました。

孤独になってしまった喪失感を感じながら、実家の整理をしていたとき、近所の人たちが島で採れた野菜や魚を持ってきてくれました。
大して手も加えずに口に入れた瞬間、「野菜や魚って、こんなに美味しかったっけ?」と感激して、涙が溢れてきました。
幼いころに食べていた島の食材の味を、体が覚えていたのかもしれません。
全身の細胞や血が、「これだ、これだ!」と喜んでいる気がしました。

実家にいると、なんだか父と母がすぐそばにいるような感覚になりました。
私がこの家に戻り、手入れをすることが父母にとって一番の供養で、喜んでくれるのかもしれないと思うようになりました。
なにより私自身「一人ぼっちになってしまった」とこわばっていた気持ちが癒されていくのがわかりました。

頭では「ぜったい無理だよ」と思っている。
でも、私の中の何かがこの島を求めていると感じました。
「もしかしたら、ここが私の居場所なのかもしれない」と思うようになりました。

2塩づくりに人生を賭ける

島の人と結婚し、子どもを産みました。
思ったら正直に口に出してしまうのが私の欠点で、周囲とはよくトラブルになりました。
島の人たちからは、「親のスネかじって東京で芝居をやっていたワガママな娘」と思われていたみたいです。

そんなある日、「村が運営している製塩所の仕事に就いた男性が、一日で辞めた」という噂を耳にしました。
男性が一日で音を上げるってどんな仕事なんだろう、興味が湧きました。
最初は男性のみだった募集が男女に変わった時、手を上げ、パートとして働き始めました。

釜場での塩づくりは今まで経験がない労働でした。
3日、1週間、となんとか続いて、無我夢中でやって1ヶ月が過ぎたころ、役場から雇用契約を勧められましたが、そのころは釜場で時々めまいを起こすこともあったので、続けられる自信を持てずにいました。

翌年、夏の7月と8月を一人で働いてみました。
めまいも起きなくなって「続けられるかもしれない」と決心がつき、雇用契約を結びました。
工場の製造ベースも進化してきましたが、塩は売れてはいませんでした。
この塩は絶対に美味しいのに、世の中に知られていないのはもったいない。
次第に「この塩をもっと知ってもらいたい」と思うようになりました。

同じころ、離婚を経験しました。
東京に出ていく選択肢もありましたが、娘と塩のことを考え、生活はやりくりできると思い島に残りました
製塩所で働き始めて10年経ったころでしょうか。
村営だった製塩所の民営化が決まり、私が引き継ぐことに。
「好き勝手に生きてきた人間に事業ができるのか?」と周囲は思ったようで、島内で孤立していきました。

とにかく毎日孤独でした。
塩と一対一で対峙する生活、商売も素人でしたので、内地での営業もうまくはいかず、全てが本当に苦しかった。
釜場で塩を作りながら、私の中に「いつか見返してやる」との思いが湧きあがるようになりました。

そんなある日、ふと誰かが私を見つめているような気がして、振り返ったら塩がいたんです。
真っ白な塩がジッと私を見つめていて、「アッ!」と思いました。
見返してやるなんて思いで作った塩って美味しいんだろうか。
この塩は美味しいんだ、そんな気持ちで塩を触ったら不味い塩になってしまう。

そのとき、煩悩は捨てて塩に触る、まっすぐに塩に向きあうと心に誓いました。
一切余計なことは見ない、聞こえない、囚われない。
一心不乱に塩を作りました。
次第に塩の知名度が上がり「この塩は絶対にいいよ」と支持してくれる人も徐々に増えてきて、なんだか報われたような気持ちになりましたね。

「どうせお前には無理だ」と思っていた島の人々も、私の塩にかける思いを認めてくれ、塩が再び私と島の人々を繋いでくれました。
役者の道を断念した私にとっては、再び自分の命を燃やせる「塩づくり」に出会えたことに感謝の思いでいっぱいです。
私を支え、助けてくれたこの塩に人生を賭けたい、と思っています。
「ひんぎゃの塩」を作っている青ヶ島製塩事業所の企業理念は「青ヶ島を未来に残す」です。
この塩はここ青ヶ島でしか作れない塩です。
でも、どんなに塩づくりを頑張っていたとしても、この島に人の暮らしが存続しないと意味がないと思っています。

島の人口が減ってきて、来年は中学校が閉校の危機に瀕していると耳にして、いてもたってもいられなくなり「なんとかしないといけない」と、日本全国から青ヶ島の中学校に留学しませんか?と呼びかける島留学企画を立ち上げました。

最初は不安でしたが、SNSを使って募集すると全国から応募が殺到。
結果、3名の中学生が島に来てくれると決まり、ホッとしました。
子どもたちには、青ヶ島でしかできない、いろいろな体験をして帰って欲しいと思っています。
青ヶ島を「第二の故郷」と思ってもらえたらうれしいです。
この島留学を毎年続け、いずれは島全体の事業として検討してもらいたいと思っています。

3「ひんぎゃの塩」を日本一に

現在は引き続き、株式会社青ヶ島製塩事業所で「ひんぎゃの塩」を作っています。

「ひんぎゃ」とは、水蒸気が噴出する噴気孔を指す島の方言。
火山の地熱蒸気を直接釜の底に引き込んで塩を作っているのはここだけです。
特に約60℃の低温で何日もかけてじっくり濃縮するのが、ひんぎゃの塩の美味しさの秘訣。
青ヶ島の海水を自然の地熱だけで温めて出来上がった塩は、世界のどこにいっても自慢できる逸品です。

真っ白な塩が出来上がる瞬間がなによりもうれしいです。
お客さまから、「うちの子どもが塩はひんぎゃの塩しか食べなくなった」といったお声をいただくと、やりがいを感じます。

塩のことを考えているときは、不思議と「いずれこうしたいな」と頭の中で夢が膨らみます。
目指すのはひんぎゃの塩を「幻の塩」にすること
大量生産は難しいですが、その分希少性を高めて、ひんぎゃの塩が永く人々に愛される商品として残ってくれたら幸せです。

そのためには、まだまだこの塩を活かしてくれる人との出会いが足りていません。
「この塩じゃないと!」と熱狂してくれる職人さんともっと出会っていきたいです。

塩づくり中の山田さん(2015年頃)

塩づくり中の山田さん(2015年頃)

私は、この島が大嫌いで一度は離れました。
でも「この島が居場所だよ」と何かが私を導いてくれて、今ここにいます。
私にとって、島での暮らしはなにものにも代えがたく、特別です。

本島から数ヶ月働きに来た人も、この島の尋常ではない強風や荒れ狂う海を目の当たりにして、「ホラー映画かと思いました」と笑うんです。
そのくらい、この島には「非日常」的な「日常」があります。
アクセスもよくないので、天候によっては船がしばらく来なくて物資が途絶えたりもする。
そういうときは、近所の人と食べ物を分けあいながら、とにかく、あるものだけでしのがなければならない。
こういう体験や不安をだれかと共有したら、それは一生忘れない思い出になるはずです。

今はネットがあればなんでも手に入る世の中。
でも本来人間は、自然に左右され生かされている存在です。
効率や利便性ばかりを追い求めてしまうと、そんななことを忘れそうになりますよね。
でもこの島には、私が幼いころからまったく変わらず、大自然と共存する暮らしがある。
ようやく、島の変わらない不便さを愛おしいと思えるようになりました。

そんな大切な青ヶ島を、10年先も、20年先も人が生活できる場所にしたい。
そのために私ができるのは、ひんぎゃの塩を日本一の塩にすることです。
青ヶ島には他にも、焼酎などたくさんのよい素材があります。
島留学も継続し、島のよいところをより多くの人に認めてもらえたらうれしいです。
ひんぎゃの塩を筆頭に産業を盛んにして、この島に暮らす一人ひとりがもっと自分の島に誇りを持てるようになったらいいなと思います

※掲載している情報は、記事執筆時点(2022年1月)のものです

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