シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

いい仕事には、いい生き方が必要。
情熱をかけあわせ、より良い作品をつくる
【旅先価値拡充デザイナー・北山瑠美】

目次
  1. 独り立ちすると心に決めた
  2. いいクリエイティブには、いい生き方が必要
  3. クライアントの人生に寄り添った仕事を続けたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、旅するデザイナーとして活動する北山瑠美さんをご紹介。

兄の影響で、幼いころからアートやデザインにふれてきた北山さん。仕事として選んだデザインの世界で、クリエイティビティと人生との関係を知ります。北山さんのクリエイターとしての仕事観とは。お話を伺いました。

1独り立ちすると心に決めた

三兄妹の一番下として生まれました。
両親は世間体を気にするタイプで、厳しい家庭だったと思います。
7つほど歳が離れた長兄に、幼いころから音楽や映画、マンガにふれさせられていました。
字幕も読めないのに80年代映画を観させられたり、クラシック音楽を聞かされたりしているうち、徐々に作品のおもしろさがわかるようになっていきました。
自分で演奏することにも興味を抱き、小学生からトロンボーンを始めました。

半ば強制的にアートにふれさせた兄は、子ども時代からクリエイティブ能力の高い、ユニークな発想の持ち主でした。
しかし、成長するにつれ人が楽しめるものより、人が恐怖を抱くようなブラックユーモアな作風に傾いていったんです。
私も兄に怖い思いをさせられた経験が多々あります。
ただでさえ兄は歳が離れていて、威圧感を覚え、怖いなと思っていて、そんな兄に恐怖感を抱くと同時に、兄のような作品を作りたいとの憧れも抱いていました。

兄の威圧感に晒され続け、だんだんと「兄の言うことを絶対聞かなければならない」状態になっていきました。
牢屋に近い状態でしたね。
つらかったですが、兄がいる以上、死ぬことすら許されないと思っていました。
しかし、両親はそんな兄妹の関係にまったく気づく様子はありませんでした。

そんな状況が、中学生のある日、突如一変しました。
兄が東京の大学に進学するため、家を出たんです。
それはまるで、支配されていた国の民が突如として解放されたかのような感覚でした。
そうして、解放感から私が抱いたのは「ああ、やっと死んでもいいんだ」との感覚でした。

その思いのまま学校の4階から飛び降りようとしていたら、たまたま友だちに見つかってしまい、強制的に止められました。
学校では優等生として過ごしてきたこともあってか、友だちは号泣し、「何してるの!?」とパニック状態になっていました。
一方で、そんな友だちの様子を見ている私は冷静で、なんで泣いているんだろうと思う余裕がありました。
しかし、取り乱した友だちには衝撃を覚え、自分の方がおかしいのかもしれないと考えるようになりました。

またいつ兄が実家に戻ってくるかわからないと思うと怖さを感じました。
このまま実家で暮らし続けていたら、私はおかしくなってしまうかもしれない。
家を出て、自活できるようにならなければと思うようになりました。

自分一人で生きていく手段として思いついたのがデザインです。
映画やマンガや音楽にふれ続けてきた中で、音楽で食べていくのは厳しそうだけれど、デザインなら学べば仕事にできるかもしれないと思いました。

とにかく実家を出たい一心で勉強。親は浜松の自宅から通える大学にしろと言っていて、ひとまず名古屋の芸術大学を受け、合格。
入学金100万円も振り込まれ、「このままこの大学に行け」との雰囲気が漂っていました。
しかし、実家を出たい気持ちに加え、もう少しチャレンジしたい思いもあり、記念受験をさせて欲しいと大阪の芸術大学を受験。
すると、こちらも合格できたんです。

しかし、父は頑として大阪行きを許可してくれません。
もう私の人生は終わったと絶望していましたが、大阪の大学に入学金を支払う期限前日になって、「行っていい」と許しをもらえました。
うれしかったですね。
無駄にしてしまった入学金100万円は、アルバイトをして親に返そうと心に決めました。

2いいクリエイティブには、いい生き方が必要

大阪は方言に勢いがある上、ポンポンとストレートに発言する人が多く、初めの1ヶ月ほどは「いじめられている」と感じて泣いてばかりいました。
友だちになった子にその話をすると、「それはいじられてるってことで、おいしいことなんやで」と言われ、正直意味がわからないと思いましたね。
しかし、気持ちをぶっちゃけたトークで笑いに変えるおもしろさに少しずつなじんでいきました。
ストレートな物言いは、決して意地悪から出るのではなく、その裏には情があるとも知りました。
腫れ物の触り方がうまいんです。
触った以上、最後まで面倒くさがらずに話を聞いてくれる人が多いんだなと感じていました。

入学後、大学の入り口で

入学後、大学の入り口で

大学を卒業後、大阪の制作会社に就職。
受注から撮影、印刷までを全て自分たちでする会社で、制作物ができるまでの流れを全て自分の目で見ることができました。
アナログからデジタルに移行する時期でしたが、私が学校で学んできたものはほぼアナログ。
使い物にならず、ゼロからスキルを身につけていきました。

結婚を機に、東京へ。
9年間過ごした大阪を離れる決断は、私にとって人生を賭けた挑戦でした。
転居後はインテリア雑貨メーカーに就職し、会社のデザイナーとして働き始めます。
その会社は直営店を持っていて、自分の作ったものがどうお客さんに見てもらえているのか、ダイレクトに反応を知れて、やりがいを感じていました。
順調に進んでいった仕事とは反対に、夫とはうまく歯車がかみあわなくなってしまい、お別れをしました。
とても精神的につらかったです。
そんな中でも、プライベートは仕事に持ち込まず、とにかく仕事をする日々でした。

私の状況を聞いた大阪の友だちからは「帰っておいで」と物件の資料が送られてくるほど。
とてもうれしく、ありがたかったです。
しかし、「ここで甘えたらダメだ、一人で生きると決めたんだから、納得いくまでここで働こう」と奮起。
グラフィックデザイナーの夢である店のロゴ、紙袋、ポスターなどを多く手掛けました。
後輩も6人ほどまでに増え、そろそろ彼らにバトンを渡した方がいいかもしれないとの気持ちになっていったんです。

東京で働きだしてから5年後、会社が持っていた表参道ヒルズの地下2階にある店を閉じることになってしまいました。
難しい立地だったので、こんな場所に次に入る店はなんだろうと気になってチェックしていたら、ある会社が運営するリサイクルショップが入ると知りました。
オープニングレセプションに忍び込んでみると、そこにはとんでもない空間が広がっていました。
空間全体がディスプレイではなくアートと呼んでもいいものだったんです。
そのリサイクルショップのコンセプト「人の想いをバトンする」にもグッときました。

そんなコンセプトを考え、事業化できる人がこの世にいるのも衝撃的でしたね。
レセプションでは社長に挨拶する機会がありました。
これだけ素晴らしい店を作った社長が、名刺をジップロックに入れているのを見て、またもや衝撃。
理解が追い付かないのと同時に、なぜか感動を覚え、その会社への転職を決めました。

入社後、上司や広報担当に言われた「仕事もプライベートも一緒。プライベートが豊かじゃない人にはいいクリエイティブはできない」との言葉に大きな影響を受けました。
「想いを込めて作った器と100均で買ったお皿とでは、食事の味が違って感じるって知ってる?」と聞かれ、この会社の人たちが生活全てで仕事に向きあっている厚みを感じましたね。
食にこだわりを持っている社員も多く、「良い体じゃないといいクリエイティブができない、だから生き方を変えなさい」の言葉に、遠回しに自分の人生を大切にしなさいと言われた気がしました。

自分の人生を見つめ直そうと思い、ふと呼ばれるようにインドに行くことにしました。
カルカッタにあるマザーテレサの家で働いたり、ガンジス川を見たりしに行ったんです。
世界中からボランティアが訪れるマザーテレサの家で、「あなたの国にもあなたの町にもカルカッタはある」と言われ、ハッとしました。
カルカッタではなく、自分の身の回りにも手を差し伸べるところはたくさんあると言われたのが衝撃的だったんです。
インドに行ったのは、東日本大震災の半年後ぐらい。
身近に東日本という大変な場所があるのに、私は自分のことだけを考えてインドに来てしまったと思いました。

ガンジス川岸の聖地で灯籠流しをする北山さん

ガンジス川岸の聖地で灯籠流しをする北山さん

帰国後、日本を見つめ直す意味も込めて東日本を訪れました。
何か手伝えればやろうと思い、陸前高田へ。
津波に襲われた場所は戦後の焼け野原のようで、同じ日本でこんなことが起きているなんて信じられない思いでした。
ボランティアに行ったあと、その体験を人に話すと、「知らなかった、教えてくれてありがとう」と感謝されたり、「メディアを通すとわからなかった」と言われたりしました。
実際に行ってきた人の話は、テレビで見るのとはまた違う受け止められ方をされると感じました。
みんながみんな現地ボランティアに行けるわけではない中、行ける人間が体験を伝えるのは意味があると思ったんです。

自分の目で見に行く必要性、見てきたことを伝える大切さを感じ、日本をあちこち旅するようになりました。
行き先は有名観光地ではなく、秘境や離島、廃墟といったあまり人が訪れない場所がメインです。
調べても出てこないことだからこそ、私が行って「こうらしいよ」ではなく「こうだったよ」と伝えたいと思いました。

まるごと島ひとつが大きな廃墟となっている長崎県にある池島。炭鉱跡も見学できる

まるごと島ひとつが大きな廃墟となっている長崎県にある池島。炭鉱跡も見学できる

発信のために苦手なSNSも始め、旅で感じたことを書き始めました。
すると、ある日メディア編集長から「うちの媒体で書いてくれないか」と連絡をもらったんです。
漢字が苦手なほどで、文章も得意ではなく、遠慮したいと言いましたが、SNSのようなデザイナー、クリエイターとしての目線で書いた文章がいいと言われ、話を受けました。
包み隠さず、飾らず、喋っているような文体で書くことにしました。

3クライアントの人生に寄り添った仕事を続けたい

現在は、会社のクリエイティブ本部のデザイナーとして平日は仕事をし、個人で旅ライターの活動を続けています。

会社ではグラフィックデザインや、店の商品をどう並べたらお客さんに見てもらえるかなどを考えるビジュアルマーチャンダイジングを担当。
立ち上げから携わってきたファミリーレストランのデザインや企画もしています。

島根県隠岐郡海士町のお土産「あましゃもじ」。ディレクションからパッケージデザインまでを北山さんが手がけた

島根県隠岐郡海士町のお土産「あましゃもじ」。ディレクションからパッケージデザインまでを北山さんが手がけた

旅ライターとして行くのは、やはり人があまり行かない場所がメインです。
その土地にしかない価値観や文化、クリエイティブを伝えたいと思っています。
たとえば、父島でスーパーマーケットを訪れたときには、パンが冷蔵庫に、牛乳が常温の店内の床に並べられていて驚きました。
これは、パンは冷凍で運ばれてくるから解凍のために冷蔵庫に、牛乳は怒涛の勢いで売れるから冷蔵庫に入れる時間もないとの島ならではの理由があるからでした。

すぐに売れるからとダンボールのまま床に置かれている牛乳

すぐに売れるからとダンボールのまま床に置かれている牛乳

最近、1社目の同期に言われた「人間なんだから、居心地のいい場所に行ったらいい」という言葉をよく思い出しています。
仕事も同じ考え方ができると感じているんです。
クライアントの要望をそのままデザインすることもできますが、私は「この人の人生に寄り添いたい」と思える仕事の方が、相手にとってもより良い仕事ができるのではないかと思っています。

幸い、会社で受ける仕事も、旅先で出会った人から個人的に受ける仕事も、私が心から共感できるものに恵まれています。
特に、旅先で出会う人は仕事とプライベートが一体化している人が多い傾向があって、人生にお邪魔するような感覚になり、共感する気持ちも強まります。
彼らの情熱に共感するから、私も情熱を注げる。
情熱が掛け合わさると、より良いデザインができるんです。
依頼者のためにも、自分が心から共感できるものなのかどうか考えることをないがしろにしないようにし、世の中に価値あるものを生み出していきたいです。

2年半前に母親になりました。
子どもは人生を変えてくれる存在であり、この子が何を感じてどう生きていくか、親の環境づくりの大切さを感じています。
子どもには、理屈だけではなく、感覚を大切に生きていっていい、自由に生きていいと伝えたいです。

子育てを通してできた夢は、アートスクールを開くこと。
一般的な絵画教室ではなく、日本文化とデザインを掛け合わせ、老若男女が楽しめる感性を磨けるような場所です。
子どもを産んでから冷静に自分の人生を振り返り、ようやく過去を言語化できるようになりましたが、自分の抱えているものを言葉にするのはやっぱり難しいと感じています。
しかし、絵で表したり、見て感じたりするのは無限。
表現は本当に自由なんだと思ってもらえるきっかけをつくっていきたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年12月)のものです

この記事は役に立ちましたか?
はい いいえ
ご協力ありがとうございました
Related Stories

関連ストーリー

この記事を読んでいる人は、こんな記事も読んでいます
シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

マイマガジン

旬な情報をお届け!随時、新規ジャンル拡充中!