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理想と矛盾しない人間でありたい。
住民が自己実現できる持続可能な街へ
【サステナブル都市計画家/都市計画事務所Mitsu Yamazaki LLC代表・山崎満広】

目次
  1. 進路を変えた数々の縁
  2. 自分はできているのか?
  3. 持続可能なまちづくりの知見を次世代に渡したい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、サステナブル都市計画家として活動している山崎満広さんをご紹介。

持続可能なまちづくりに関心を持ち、再生可能エネルギーの専門家として活躍する中で自分の言っていることとやっていることのズレを感じたといいます。山崎さんがズレをなくそうと選んだ道とは。お話を伺いました。

1進路を変えた数々の縁

母子家庭で育ち、茨城県の工業高校に進学しました。
生徒会長だったのに、進学も就職も決まらないまま卒業間近になってしまい、何か大きなことをしなければカッコ悪いと思うようになりました。

そんなとき、たまたま新聞で国連軍のスーダンの内戦における救助に関する記事を読みました。
亡くなった方の遺体を運んでいる写真にネガティブな感情はありつつも、胸を打たれたんです。
人生を掛ける価値がある仕事だとも感じ、国連職員になるとゴールを定め、逆算して長期的な計画を練りました。

今の自分の成績でもアメリカの大学なら英語さえできれば入れると知り、目指すことにしました。
アルバイトをしながら資金を貯め、高校卒業二年後にアメリカ、ミシシッピ州にある大学への入学が決まりました。

大学時代の山崎さん

大学時代の山崎さん

国連職員の試験を受けるには最低でも修士号が必要なので、大学卒業後は院に進まなければなりません。
しかし、母子家庭で経済的な余裕はない。
たとえ大学院に合格したところで、経済的な理由で通えない状況でした。

どうしようと思いながら、メキシコ留学に送り出してくれた恩師に相談に行ったところ、彼から「国連職員にこだわる必要はあるのか?」と言われたんです。

「国連じゃなくても社会の役には立てる。もう少し広く考えてみたらどうか」と言われ、「今の僕に何ができますか?」と問うと、「俺が新しく立ち上げた修士プログラムで、外国人の生徒を求めている。よかったら入ってみないか」と誘いを受け、「お前なら推薦できる」とまで言ってくれました。
学費の問題を相談すると、働きながら奨学金が出るアシスタントシップが二枠あると教えてくれました。
僕はその場で申し込み、翌日には「審査に通った」と連絡をもらい、大学院に進めるようになったんです。

その大学院は、アメリカで初めて「地域の経済をどう盛り上げ、持続可能にしていくか」とのテーマを扱っていました。
私は二期生として、優秀な教授陣の元で世界中の大きなメーカーが次の工場の候補地をどうやって探すのかといった研究をしました。
その過程で、持続可能なまちづくりに興味を抱くようになりました。

しかし、電力会社でのインターンシップも始めていた、大学院卒業の年の9月11日、ニューヨークで同時多発テロが発生し、外国人の就労ビザ取得が極めて難しくなりました。
そんな中、あと2週間で卒業し帰国しなければならなかった12月、インターンシップ先の上司が現地ゼネコン会社の方と引きあわせてくれました。
そうして、縁あってそのゼネコンで働けることになったんです。

2自分はできているのか?

ゼネコンでの仕事は多忙で、出社して出張、出張先からさらに出張と家に帰らない日々を過ごしました。
在米日本企業向けの営業の仕事を任せられ、ときには1,000億円の大規模プロジェクトに携わったり、「アジア人だから」との理由で韓国に行くよう命じられ、大手自動車会社の会長と自社のトップが会えるよう段取りを組んだりもしました。

その後、会社に命じられミシシッピ州からテキサス州へ転勤しました。
アメリカで1、2番目に貧しく発展していないミシシッピ州に対し、テキサスは1、2位を争う大きな経済を有する州でした。
引っ越したあとも現地で仕事をする機会は少なく、あちこちを飛び回る日々。

そんなある日、久々に帰宅した私が目にしたのは、枯れてしまったサボテンでした。
2週間に一度の霧吹きで済むからと育て始めた生き物が死んでいる。
その様子を見て、はたと「経済開発を学び持続可能なまちづくりをしたいと思ってきたのに、一体何をしているんだろう」と思ったんです。
それをきっかけに、もう少し人間らしい生活をしたいと思い、地域に根付いた経済開発の仕事をしようとサンアントニオの経済開発財団に転職しました。

でも転職してすぐに、開発や成長ばかりを考える「イケイケ」の仕事だけでは続かないだろうと考えるようになりました。
それからだんだんと、どうすれば地球に優しい開発を進められるかを考えながら話をするようになっていったんです。
そのうちに、周りから「こいつは真剣にこの町の未来を考えている人間だ」と信頼を得られるようになり、テキサスに馴染んでいきました。

テキサスは1800年代からオイルとガスに頼った経済発展をしており、それらがなくなれば発展が止まってしまうかもしれない。
一部には、その危機感から、持続可能なエネルギー源の風力やソーラー、ヒートポンプなどに関心を持つ人もいました。

リーマンショックが起き、大打撃を受けたあと、アメリカでは今後どうすれば国の経済が盛り上がるかの模索が始まりました。
自動車やITに目を向ける人が多い中、私は「リニューアブルエネルギー(再生可能エネルギー)で攻めましょう」とコンサルティング先で伝え、発表や講演をし始めました。

再生可能エネルギーに関しては任せなさいといった具合に、あちこちで話すようになったんです。
しかし反面、自宅にはソーラーパネルがないし、日々の移動はガソリン車に頼り切っている。
これでは言っていることとやっていることが違うじゃないかと思い始めました。

リーマンショックから二年の時を経て、各行政機関の予算面にも影響が及び始めました。
そういった予算カットの影響で、私が勤めていた会社でもリストラが起き始めたんです。
私は社長、経営陣の次に給与が高かったので、次に肩を叩かれるのは自分かもしれないと戦々恐々としていました。
娘が生まれたばかりで今仕事は辞められないと上層部に伝えたところ、社長から「売上を上げられる新部署を自分で立ち上げる、もしくは転職か起業に挑戦してみろ」と言われました。
若さも助け、「じゃあチャレンジしてやろう」と行動し始めました。

半年ほどかけ、新たな営業を掛けたり転職活動をしたり事業計画を立てるなどしましたが、最終的に選んだのは転職でした。
オレゴン州のポートランド市開発局の面接に受かり、公務員としての転職を決めました。
ポートランドでは車なしで通勤でき、自然が近いのでアウトドア生活も楽しめる。
それに日本への直行便があるといった現実的な面も考えつつ、コンサルタントとして人に説いている持続可能な生活が実践できていない現状を打破したいとの思いが、ポートランドに移る決断を後押ししました。

この転居で、僕や家族の生活の質はぐっと上がりました。
ポートランドではニューヨークやロサンゼルスのように大企業で四六時中働いて大金持ちになるといった価値観は主流ではなく、自分のライフスタイルを確立し、ゆとりある生活を送れる程度のお金を持っていればいいとの価値観がありました。

ポートランドにて、ご家族での一枚

ポートランドにて、ご家族での一枚

ゆとりのある生活を送り始めて、出張ばかりしながら四六時中仕事をしていたときには感じられなかった、自分の欲求が満たされている感覚を味わえるようになりました。
週末は家族とフルーツ狩りや海や山に行くなど、テキサス時代から願ってきた生活が自ら実現できるようになりました。

ようやく言っていることとやっていることが一致したんです。
個人の軸がぶれていたら、最終的に人に伝える内容にもブレが生じるし、街をつくるときにも「儲かるからいいか」と妥協してしまう。
ポートランドで自分の価値観と行動が統一され、世の中が本当にうまく変わるにはどうすればいいのか、と軸をぶらさずに考えられるようになっていきました。

ポートランドは、アメリカとして初めて都市のソリューションの輸出に取り組んでいました。
ポートランドのまちづくりのノウハウや考え方を諸外国に売り込んでいくものです。
僕は経済開発、都市開発を専門的に学んできた経験や、前職での営業経験を活かしていきました。
また、地域経済開発で修士号を持っていたので、都市がどう動けば経済が動くかといった戦略や企画づくりまでも任されることが多くありました。
唯一の日本人として、日本にポートランドのまちづくりを広げる仕事も担当するようになり、多忙な生活の中、著書の執筆も始めました。

2014年ごろからはポートランドが世界中から脚光を浴びるようになり、日本にも頻繁に講演に行くようになりました。
日本には素晴らしい企業がたくさんありますが、まちづくりには行政が絡み、企業とだけでは進められません。
当時の行政からは、私たちが持ち込む住民と共につくっていくまちづくりの話を「素晴らしいけれど、実現は無理」と言われることが多くありました。

2017年に二冊目の著書の刊行も決まり、開発局職員の立場と自分の活動との両立が難しくなり、独立を決意しました。
以前、起業準備をした経験があったので、独立に対する心理的なハードルがそれほど高くはなかったんです。
しばらくポートランドを拠点に出張ベースで日本の仕事をしていましたが、子どもが成長するにつれ、祖父母とのコミュニケーションや、自分の母の老後について考えるようになりました。
世界、特にアジアで仕事をしてみたい思いもあり、日本に拠点を移しました。

帰国後は、海外との繋がりに恵まれました。
韓国での講演を通して新たな縁ができたり、ファシリテーターとして登壇したグローバルカンファレンスでゲストと盛り上がったりと、世界中に仕事を展開出来そうな気配が漂ってきました。
カンファレンスには横浜国立大学の教授が来ていて、そのご縁で客員教授を務めると決まりました。

韓国で開催されたカンファレンスでの一枚

韓国で開催されたカンファレンスでの一枚

さらに友人の紹介で世界銀行の東京事務所と繋がりができ、世界銀行のコンサルタントの仕事を手がけられるようになりました。
夢を抱いていた国連ではありませんが、国際機関に携われるようになってきたと感じました。
しかし、帰国して半年、コロナ禍に突入。
海外の話はほとんど延期となってしまいました。

3持続可能なまちづくりの知見を次世代に渡したい

現在は日本国内で依頼をいただいたまちに出向き、いろいろな人と対話をしながら街の未来を描いていく都市計画の仕事をメインにしつつ、大学客員教授の仕事を続けています。
都市計画の仕事は、今は神戸で2拠点、栃木県小山市、富山県南砺市の4拠点がメインです。
駅に近いのに利用者が少ない公園の整備や、駅前の都市計画のビジョンづくりの手伝い、街並みや地域経済の調査などを行っています。

目指したいのは住みやすい街で、それは私にとって生きやすい街を意味します。
住民が自己実現しやすい街の仕組みや考えをつくるのが私の仕事です。
コミュニティや経済、商工業といった取り組みと、建物や道、空間などのハードとを包括的に考え、住民たちの意見を踏まえてつくる点を大切にしています。

行政の姿勢も随分と変化したように感じます。
知らないまちで、「山崎さんの講演を聞いた流れで、これができたんですよ」と話しかけられることもあり、日本のまちづくりの変化のための役割を少し担えたのかなと思っています。

今後は、時間をかけてまちづくりに携わることで良くなっていく成功体験を得たいですね。
コロナが落ち着いたら海外、特にアジア諸国のまちづくりにも関わってみたいです。

今、人生の半分が終わっている年齢になり、私の意思や学んできたものの根幹を次世代にバトンタッチできる仕組みもつくりたいと思っています。
私の会社のインターン生には、予算や契約書までを見せていろいろな経験してもらっているんです。
優秀な子たちで、少し教えただけで自ら考えて次の行動に移してくれるので、今後の成長と活躍に期待しています。
私が長年アメリカ、メキシコ、そして日本で培ってきたものを次に渡すのも、また一つの持続可能性と言えるのかもしれません。
インターン生を育てるだけではなく、大学の客員教授の仕事も続け、積極的に次世代に私が得てきた知見を渡していきたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年12月)のものです

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