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キャリアが途絶えたって人生は続く。
ITスキルでやり直せる社会をつくる
【フロイデグループ代表・吉谷愛】

目次
  1. プログラミングが居場所をつくってくれた
  2. 再び危機を救ってくれたプログラミング
  3. やり直しがきく社会をつくる

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、「無職やフリーターを1000人エンジニアに」とミッションを掲げ、エンジニアの育成支援をしている吉谷愛さんをご紹介。

結婚直後に無職になるなど多くの困難があった吉谷さんですが、プログラミングのスキルによって人生が一変したといいます。吉谷さんが目指す社会のあり方とは。お話を伺いました。

1プログラミングが居場所をつくってくれた

私は幼いころ、衝動的で落ち着きがない子どもでした。
学校でも椅子に座っておとなしくノートをとれないので、勉強もついていけなくて。
空気も読めず、周囲とも馴染めない。
学校でも友だちがほとんどできませんでした。

発達障がいの気質がありましたが、親も先生にも理解してもらえず、息苦しさを感じていました。
勉強も好きじゃないし、特にやりたいこともない。
早くいい人を見つけて結婚しようと思っていました。
子どもが好きだったので、保育士になろうと短大に進学しましたが、やはり集中力が続かず、命を預かる責任の重い保育士の夢をあきらめました。

短大を卒業してからは、親に勧められるままに企業の事務職に就職しました。
事務であれば、私にもできるかなと思っていたんです。

入社すると、基本的な業務もまったくできなくて。
ミスが多い上に、気が利かない。
どうして自分がやらないといけないかが分からず、上司に口ごたえする始末。
次第に職場でも孤立していき、居場所がなくなっていきました。

けれどこのままこの仕事を辞めてしまったら、きっとどこの会社でも同じようになる。
もうあとがない焦りがありました。

この会社でどうすれば生きていけるのかを考え、その結果苦手なスキルを集中的に伸ばしてみようと思い至りました。
得意な仕事が一つでもできれば、もっと仕事を楽しんでやれるんじゃないかと考えたからです。

まずは基本的な事務の勉強をしてみようと、秘書検定の資格をとることにしました。
勉強をしていくうちに、今まで「どうして自分がやらないといけないのか」と疑問に感じていたひとつひとつの業務に、きちんと意味があると腑に落ちたんです。
私は、理由や意味が理解できれば前のめりになって努力できる性格だと気がつきました。

それ以降は、お茶を出すときにもお客さまによって濃さを変えるなど、少しずつ相手の目線に立った工夫ができるようになっていきました。

当時、ちょうどWindows95が世に出たばかりで、周りとスタートラインが同じだと気がついてパソコンスキルを学び始めました。
今から始めれば、遅れをとらずに済むかもしれないと思ったんです。

Excelの関数やマクロを独学で勉強しました。
それまで計算ミスがとても多かったけれども、関数を組めば苦手な計算も一発でできる。
プログラミングの資格もとって、周りの人にも教えるほど職場でパソコンに詳しくなっていきました。
次第に、一生プログラミングを仕事にできたら幸せだなと思うようになりました。

周りにも私の努力が伝わったのか、上司や同僚の空気感が変わっていったのがわかりました。
社長秘書に抜擢してもらい、それまで感じていた居づらさはなくなりました。
最初はこの会社でなんとか生き残るための術でしたが、努力をすれば道は開けるとわかりました。

一方で、せっかく楽しさを知ったプログラミングを、普段の業務にあまり活かせないのがもどかしく感じてきました。
ちょうどそのころ、友人から「未経験でプログラミングの仕事ができる会社がある」と教えてもらいました。

この会社には4年も勤めたし、今辞めても「逃げ」にはならないだろう。
そう思い、24歳のときにプログラマーの派遣をするIT企業に転職しました。

プログラマ転向時の吉谷さん

プログラマ転向時の吉谷さん

プログラミングの勉強ができると思って入りましたが、その会社では未経験者に対する研修はなにもありませんでした。
勉強本だけ渡されて、「とにかく派遣先に行ってこい」と言われるんです。
機械の制御に関する仕事だったので、専門性の高いプログラミングが必要になるものの、数学が苦手な私にはまったく理解できなくて。
会社にとっても私はお荷物だったようです。

それでも、なんとか食らいつき、仕事をしながら勉強を続けました。
初めはわけがわからなかったシステムも、次第に点と点が繋がり、理解ができるようになりました。
周りからも「吉谷さんに来てほしい」と重宝してもらえるようになり、努力次第で昨日できなかったことが今日できるようになるんだ、と喜びを感じました。

しかし、出張が多く肉体的にハードな仕事。
一生この仕事を続けるのは無理だと感じるようになりました。

2再び危機を救ってくれたプログラミング

29歳のとき、結婚をしました。
もともと仕事自体があまり好きではなく、早く結婚したいと思っていたので、寿退社を決意。
プログラマーとして勤めていた会社を辞め、晴れて専業主婦になりました。

ところが、入籍後3週間で夫が病気になり、失業してしまいました。
私は専業主婦という職に就いたつもりでしたが、夫が無職になった今、二人とも無職だという事実に気がつき愕然としました。

職場にも「仕事より家庭を選ぶ」と啖呵をきって辞めたので今更戻れない。
親ともそりがあわなかったので頼れず、途方に暮れました。
新婚旅行でお金も使い果たしていたので、翌月の家賃が払えないような状況でした。

なんとかお金を工面しようと就職先を探しましたが、いつ妊娠などのライフイベントを迎えるかわからない既婚女性は企業にとって雇うリスクも高い。
短大卒で大した資格もなく、就職の道は非常に厳しいと悟りました。

生きていくために残されたのは、介護か夜の仕事。
私は、そんなに悪いことをしたのか、と思いました。
結婚して専業主婦になり、たまたま夫が病気になってしまった。
家庭は捨てたくない。
ただ平凡な幸せを望んだだけなのに、どうしてこんなに追い詰められないといけないのかとあまりの不条理さに憤りを覚えました。

とにかく、翌月の家賃が引き落とされるまでにお金を工面しないといけません。
「自分で仕事をとってくるしかない」と腹を括りました。
夫はプログラミングスキルはあり、在宅での仕事はできる状態。
知りあいに人生初の営業をして、プログラミングの仕事をとってくることができました。
二人で協力して、なんとか初めての成果物を納品しました。

受け取ったのは、現金50万円でした。
バスで持ち帰りながら、これほどお金の重みやありがたみを噛み締めたことはありませんでした。
無事に翌月の家賃を払い、初めて人生の危機を自力で打破できた経験に満足感も覚えました。

そこからは、夫婦でフリーランスとして仕事をしていきました。
私が仕事の受注をして、二人でプログラミングをする。
それまでは私もプログラミングをかじった程度でしたが、本格的に勉強をし、自分で開発ができるレベルに達しました。
営業してプログラミングもやるとなると、次第にキャパシティーが限界になっていきました。

知りあいに頼み、一緒に働いてくれる人を紹介してもらいました。
その人はプログラミング未経験で、私が教えながら仕事をしてもらうことにしました。
自分自身が独学で学んできたので、未経験の人がどこでつまずくのかわかるのです。
これは私にしかない強みだと思いました。
自分で手を動かすより、人に教える方が適性があると考えるようになりました。

2、3年ほど夫や知りあいの範囲内でなんとか仕事をしていましたが、取引先の都合で法人化する必要があるとわかりました。
父が経営していた休眠会社の名義を借り、法人として始動することになりました。

事業は順調で、10人ほどの社員を抱えるほどの規模に拡大。
もともと子どもが欲しかったので、会社が安定したこのタイミングで妊活も始めました。

なかなか子どもを授かることができず、9年後に第一子を出産しました。
二人目にも恵まれ、子育てにもしっかり向き合いたいと思ったとき、ふと「私はなぜ社長を続けているのだろう」と疑問が湧いてきました。

もともと仕事が好きではなく、結婚したら専業主婦としてのんびり暮らすつもりでした。
突然夫とともに無職になってしまったから、生きるために必死にここまでやってきた。

そのときふと、なぜ私がこの会社を始めたのか考えたんです。
原点は、翌月の家賃が払えるかもわからない状態で、「介護か夜の仕事か」と選択に迫られたときに感じた憤りでした。
新卒一括採用が主流の日本社会において、いろいろな事情で一度キャリアが途絶えてしまったとき、やり直す術があまりにも少ない。

私を救ってくれたのは、偶然身につけていたプログラミングのスキルでした。
だからこそ、ITスキルは人生をやり直すチャンスをくれるものだと確信していました。

きっと私のように差し迫った状況に置かれ、苦しんでいる人はたくさんいるはず。
失敗や挫折をしても、やり直せる社会をつくりたい。
それができるのは、苦しさや大変さを知っている私しかいない。
そう思いました。

3やり直しがきく社会をつくる

現在は、フロイデグループの代表として、エンジニアの育成や就労支援をはじめ、精神障がいや発達障がいを持つ人向けの就労支援をしています。

未経験でプログラミングを学ぶ人が、どこでつまずきやすいかは私がよくわかっています。
フロイデで提供しているのは座学の勉強ではなく、全てグループ会社が受注した実際の案件の一部。

自ら仮説を立て、手を動かして仕組みを体得していく。
まさに私がプログラミングスキルを身につけたときの勉強方法です。
独学だと挫折してしまいがちな人も、このやり方なら楽しんでやってくれます。

グループ内で生まれた仕事での実践を通してスキルを獲得し、フロイデの外で活躍できる一人前のエンジニアになる。
この瞬間がたまらなくうれしくて。

私のミッションは、1000人の無職やフリーターをエンジニアに育てること。
手に職をつけることができれば、家庭が持てる。
すると、結婚相手と2000人の人生が変わります。
彼らが子どもを産んで、その子どもたちがパートナーを見つけることができれば4000人、とその数字はどんどん大きくなっていきます。

1000人のエンジニアを育て、ITスキルの裾野を広げることができれば、もしかしたら1万人以上の人の人生を動かせるかもしれない。
それだけこの事業には社会を変える可能性があるし、私がやるべきだと思っています。

根底にあるのは、たとえ人生に行き詰まっても、何度でもやり直せる社会をつくりたいとの思い。
新卒一括採用のカードを活用できなかったら人生が終わりなんて、絶対におかしいんです。
いろいろな困難を個人の自己責任に片付ける日本社会の不条理に、挑戦していきたいと考えています。

フロイデグループ決起会の様子

フロイデグループ決起会の様子

初めは無職やフリーターの人々を救いたい一心でしたが、今はもっと多種多様な人々がITスキルを学びながら価値を創造していける仕組みをつくりたいと思っています。

最近は、特に精神障がいや発達障がいを持つ人向けの事業に力を入れています。
なによりも、私が幼少期から発達障がいがあり、社会に馴染めなかった苦い過去があるからです。
一般企業で「普通」に働くのが難しかったとしても、ITスキルは全ての人が等しく学ぶことができる。

最近では韓国やウガンダの人にもオンラインでプログラミングを教えています。
ITスキルは地域も年齢も性別も学歴も国籍も人種も全部越える。
障がいを持つ人も、外国の人も。
だれも取り残さずにチャンスが与えられる社会をつくりたいです。

私はこれまで、言ってみれば「川下り型」の人生でした。
目の前の現状をなんとかしようと、苦手なことに徹底的に向きあい、得意なスキルを伸ばしているうちに世界が変わっていった感覚です。
初めから「やりたいこと」を仕事にしていたわけではありません。
「やりたいことが見つからない」と悩むより、流れに身を任せながら、まずは目の前のことを愚直にやっていくしかないと思っています。

これからも、「自分が今どんな価値を提供できるか」「誰を幸せにできるのか」考えながら、私にできることをやっていきたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年12月)のものです

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