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チャンスをつかむかどうかは自分次第。
動物園から伝える環境保全の大切さ
【よこはま動物園ズーラシア園長/日本大学生物資源科学部特任教授・村田浩一】

目次
  1. 母からもらった言葉が決断の指針に
  2. 女神の前髪をつかむかどうかは覚悟次第
  3. 次に思いを引き継ぎたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、よこはま動物園ズーラシアの園長を務める村田浩一さんをご紹介。

進むべき道を決めるとき、いつも胸にあったのは母の「意にそぐわない生き方はしないように」という言葉だったと言います。村田さんが重ねてきた選択とは。お話を伺いました。

1母からもらった言葉が決断の指針に

生まれたころの私は健康ではなく、医者に「この子は3年も生きられないかもしれない」と言われていたそうです。
そんな医者に母は「私が守ります」と宣言して懸命に育ててくれ、無事に3年を超えることができました。
母からすると、私の命は大切に大切に守ってきたもの。
そんな母心からか、「あなたの意にそぐわない生き方をしないように」と言われて育ちました。

社会全体がそれほど裕福ではない中、私も炊事場や便所が共用で風呂がない小さなアパートで暮らしながら、「もっと広い世界へ飛び立ちたい」という思いを抱いていました。
テレビも一家に一台ない時代です。
テレビがある人の家に集まってはテレビ番組を楽しみ、アメリカの一般大衆向け西部劇の影響を受けて「カウボーイになりたい」と思っていましたね。
外遊びや須磨海岸での海遊びに夢中になる中で、自然と環境や動物に興味を抱いていきました。

高校生になると、北杜夫の小説「どくとるマンボウ」の影響を受け、獣医として世界を巡って仕事をしたいとか、造船技術者になりたいなど、さまざまな夢を抱くようになりました。
しかし、これといった将来を定められないまま受験生に。
悩みに悩み、医師か獣医師を目指すことにしました。
医師は6年間通う学費が厳しく、働けるようになるまで時間もかかるので、当時4年制だった獣医学科に進むことを決めました。

勉強するうちに、飼い主とのコミュニケーションが必要な動物病院で働くのは自分には難しいと思うようになりました。
大学を卒業するオイルショックの直前は新卒採用人数がどの企業も多く、どこでも選べるような情勢でしたが、なんとなく会社員になることには疑問がありました。
このまま就職すると、母から言われてきた「自分の意にそぐう生き方」ができないのではないかと思い、フリーターを選択。
山小屋を転々としながら過ごす生活を送りました。
しかし、息子の私が自由に暮らしている一方、母はずっと働き続けてくれています。
一年ほどフリーター生活を送ったところで、母を働かせたまま自分が自由に生きているのはおかしいと思うようになり、公務員試験を受けることにしました。

国家公務員の道もありましたが、自分の住む地域社会に貢献したいと思い、地方公務員試験を受けて神戸市職員として働くことになりました。
野生動物に関わる仕事に就きたかったのですが、ここで動物に関わる仕事となると、選択肢は保健所か食肉処理場の2択。
私が働きたいと思える仕事内容ではなく、早々に退職が頭をよぎりました。

公務員を辞めたら、青年海外協力隊になってアフリカかネパールに行こうと思いました。
海外が選択肢にあがったのは、母方の祖父の存在があったからです。
祖父は若いころに苦労しながら海外渡航し、現地の小学校で英語を身につけて大学進学を果たし、日本初の歯学博士(DDS:Doctor of Dental Surgery)になったという経歴の持ち主でした。
そんな祖父の生き方を見てきて、負けてはいられないと思ったんです。

しかし、せっかく公務員になれたのだからという気持ちもあり、ひとまず働きながら土日に神戸市立王子動物園に実習に行かせてもらうことになりました。
本来、公休日に他機関へ実習に行く公務員などほとんどいませんでしたが、特別に飼育業務に携わらせてもらっていました。
そんなある日、毎週やってくる私の姿を見ていた園長が取り計らってくれ、事務職員として動物園に異動できることが決まりました。

2女神の前髪をつかむかどうかは覚悟次第

動物園で働き始めて知ったのは、欧米の先進的動物園と日本の動物園との違いでした。
日本の動物園はレクリエーションを中心に発展してきましたが、欧米の動物園は1800年代から博物学という学問領域を基盤に発展し、研究的側面や学術的側面を持ちあわせていました。

日本の動物園も欧米を見習わなければ将来がないだろうと感じ、まずは自分自身に野生動物の研究を課しました。
近くにある医科大学の研究生となり、仕事が終わった19時ごろから研究を行い、論文を書く生活を送り始めたんです。
やるからには、個人として最大限の努力をすべきだと思っていました。

王子動物園時代の村田さん

王子動物園時代の村田さん

しかし、研究視点で動物を見る私を皆が理解してくれていたわけではありません。
ある上司からは「動物園は研究をする場ではない」と苦言をもらったこともありました。
それでも私は研究がしたい。
世界に飛び立ちたい思いが残っており、動物園勤務を続けることに迷いを抱く瞬間もありながら、仕事と研究の両立を続けました。

動物園で働き始めて17年が経ったころ、阪神淡路大震災が発生。
地元が甚大な被害に遭ったことで、地域に貢献したいという地方公務員を志した初心に立ち返り、公務員としての自覚が芽生えました。
それが市民のために生きる決意に繋がりました。

勤務23年目、ある先輩公務員から「君は動物園から異動になりそうだ」と聞かされました。
実は、園長の取り計らいにより動物園で働き始めて以降、周囲の人たちは私が異動させられないよう陰で守ってきてくれていたのですが、それがもう限界にきてしまったとのことでした。

同じ時期に、日本大学にいる知り合いの研究者から「うちに来ないか」と誘いを受けました。
悩みましたね。
公務員は25年間働けば満額の退職金がもらえるので、そこから新たな挑戦をする人はいますが、当時の私は23年目。
半分に減額されると家計に影響が出るので、妻や娘のことを考え、血を吐くほど悩みました。

しかし、公務員を選べばもう動物園にはいられず、保健所などへと異動になります。
このタイミングでの大学への誘いは、もしかしたら「チャンスの女神」なのかもしれないと感じ、悩みに悩んだ結果、女神の前髪をつかんでみようと決心。
その結果が失敗だったとしても、覚悟して選んだ道なら構わないと思い、大学へ転職することを決めました。

担当したのは野生動物学や動物園学です。
教壇に立つのは初めてで、最初はかなり緊張しました。
新しい挑戦は大変でしたが、面白さもありました。
学生からは、動物園で働いていた経歴を評価してもらえました。
実体験があるからこそ、伝わるものが大きいと実感しましたね。
これまで常に現場主義でしたが、汗と涙を流しながら現場で生きる大切さをより強く感じました。

あるとき、国内で一番新しく誕生した動物園の「よこはま動物園ズーラシア」を含めた横浜市立動物園の将来を議論する「あり方懇談会」や「運営体制検討会委員会」が設けられ、そこに委員として招かれました。

横浜市の動物園は先進的で、特にズーラシアは計画段階から欧米の進歩的動物園を参考に作られていました。
特に驚いたのは、動物園内に研究所が設けられていたことです。
私が理想にしていた研究のできる動物園がすでに日本に作られていたことは衝撃で、同時に羨ましさも強く感じました。
公共の施設である動物園だからこそ、レクリエーション中心ではない研究や学問に関する役目を担える。
有識者との議論を進める中で、研究成果の発信をするなら市営で、それができないなら民営も考えざるを得ないという話にまとまりました。

あるとき、委員会メンバーでありズーラシアの園長を務めていた方が突然亡くなられ、園長不在の期間が続きました。
また、私もステージⅣの胃がんの診断を受け、胃全摘手術を受けることに。
母の言葉を胸に、意にそぐう生き方を模索してきましたが、闘病体験により、さらに自分の人生を大切にしたいと思うようになりました。
明日死ぬかもしれないのだから、今日を大切に生きなければと深く感じました。

ズーラシアの園長不在期間が2年となったある日、園長就任の打診がきました。
幸いがんは再発せず元気でしたが、今後どうなるかはわかりません。
話を受けていいものか悩みました。
そんな私に、市長が「私の知り合いに胃がない人が何人もいるけど、長生きしていますよ。大丈夫です、ぜひ受けてください」と言ってくれたんです。
その言葉に背を押され、再び女神の前髪をつかむ覚悟を決めました。

園長として一番強く思っているのは、職員に専門性を意識してほしいということ。
大学にいたころから研究の重要性を感じてきた私は、これからの動物園職員は単なる「動物好きの飼育係」ではなく、野生動物の専門家であるべきだと確信しています。
サイエンスとして動物を理解し、日々のケアをする。
さらに動物を研究し、外に向けて成果を論文として発信していく。
その力を職員たちに身につけてほしいと、園内で大学と同じような講義を行うことにしました。
日本の動物園をけん引する人材を育てていきたいと思ったのです。

また、野生動物を知る上では自然環境も無関係ではありません。
私は高度経済成長期を生きてきたこともあり、環境汚染による公害病の問題も見てきましたし、遊び場にしていた海岸が汚れてゆく変化も身近に感じてきました。
私にとって、野生動物と環境の保全をひとつの繋がりとして捉えることは当然のこと。
その思考回路があったので、動物園で地球環境保全の発信活動も始めました。

3次に思いを引き継ぎたい

現在もズーラシアの園長として、野生動物の魅力を多くの人に伝えています。
同時に、環境保全の重要性を伝える活動も実施。
社会や経済、政治、教育も含め、自然環境と人、そして動物の健康をひとまとめに考える「ワンヘルス」の考え方を普及する役目も動物園は担っています。

ワンヘルスは世界では2000年代初頭から知られていますが、日本ではまだまだ認知度が低い考え方です。
私はOIE(国際獣疫事務局)という、家畜の健康を司る国際機関の野生生物専門家グループに属し、他の国際機関と共にワンヘルスの取り組みを実施。
日本大学の特任教授としても、学生たちに野生動物保全の大切さを伝えています。

動物園では、小学校高学年の子どもたち向けに「ズーラシアスクール」という保全教育プログラムを開催。
半年間、月1回土曜日に動物園に来てもらい、講義やワークショップなどを通して環境保全について学んでもらいます。
最後に迎える卒業式では、子どもたちに発表をしてもらうのですが、こちらの予想を超えてくる内容が多く、毎回驚かされています。

実際のズーラシアスクールの様子

実際のズーラシアスクールの様子

環境保全について学んだ子どもたちは、家に帰ると親に「どうしてそんなにゴミを捨てるの?」「プラスチックって使っていいの?」と質問を投げかけているそうです。
そんな彼らも、10年すれば大人になります。
知識や環境保全について考えることを当たり前だと感じる価値観を持った大人が増えて社会を変えることで、未来はきっと明るいものになる。
そう私は希望を抱いています。

環境教育はネガティブな印象を与え、不安をあおるものが多くありますが、私は自然の素晴らしさや動物の魅力をポジティブに伝えていくことが大切だと思っています。
その役目を担えるのが動物園であり、逆に担えなくなるなら世界に動物園は不要となるでしょう。

生物の進化を一年間に置き換えたとき、私たち人類は「12月31日の23時37分に生まれた存在」と言われます。
その中でどう生きていくかは自由。
最悪の結果を受け入れる覚悟さえあれば、意にそぐわない生き方に耐える必要はありません。
しかし、私を動物園に引き入れてくれた園長や大学に呼んでくれた研究者などがいてくれたように、人は独りではなく、誰かに支えられて生きています。
自分の出した成果も、一人で成し得たものではないのです。
そうして磨かれてきた自分の思いを、大切な人に引き継ぎたい。
子どもたちや園の職員たちにつないでいく努力を続けたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年10月)のものです

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