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「やりたい」衝動があれば行動できる。
子どもたちに人生の選択肢をギブしたい
【総合型選抜専門塾AOI塾長・藤原照恭】

目次
  1. 「お前には無理だ」と突きつけられた部活選び
  2. 子どもたちに選択肢を与えられる仕事を
  3. 「衝動」に気づかせる存在になりたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、総合型選抜(旧:AO入試)専門塾AOIの塾長を務める藤原照恭さんをご紹介。

赤ちゃんのころ、筋肉の中に腫瘍ができる「デスモイド腫瘍」という病気にかかった藤原さん。治療や入院生活を通して「与えられる」ことが多く、「テイクされる人生からギブする人生」に転換したいと考えたと言います。藤原さんがギブしたいものとは。お話を伺いました。

1「お前には無理だ」と突きつけられた部活選び

生後11ヶ月で「デスモイド腫瘍」という筋肉の中に腫瘍ができる病気を発症し、小3で大きな手術を受け、左足に装具をつけ、杖を使わなければ歩けない状態になりました。
しかし、親は足が悪いことを理由に甘やかすことはなく、「なんでも最大限できることはやりなさい」というスタンスでした。
体育の授業で1500メートル走があるときも、「歩いてでもいいからやり切りなさい」と言われ、限界までやることが私にとって当たり前のことでした。

小4になり、1ミリずつ足の骨を伸ばしていく治療を行うため、親元を離れて2年間入院しました。
左足にはずっと機械が入っていて寝返りも打てない。
そんな私を楽しませてくれたのが、病院にボランティアに来てくれていたお兄さんお姉さんでした。

治療の甲斐あって、サッカーや野球など、スポーツを普通に楽しめるように。
タイムを競う本格的な水泳も始めました。
ところが、小6になり、また足が曲がってきてしまいました。
2年間が無駄だったように思えてやるせない気持ちになりましたが、「また戻るだけ。それがどうした」とも思えていました。

足が悪くなったことで水泳の成績は悪化。
目に見えてタイムが悪くなってしまい心が折れ、中学1年生のときに水泳を辞めると決めました。

水泳をしていて部活に入っていなかったので、中学2年生になりテニス部に入部希望を出しました。
しかし、学校側から「障がいがあるから入部させられない」と言われてしまいました。
「できないことはない」と反論したのですが、「何かあったら責任が取れないから」と受け入れてもらえません。
最終的には校長先生まで出てくるような大きな話になってしまいました。

最後は、尊敬していた主任の先生に「やりたいこととできることは違うよね」と諭され、断念することに。
私の中には「僕はやりたいことを実現させてきた」という気持ちがありましたし、テニスもできると思っていたので、先生の言葉は正直心に響きませんでした。
それでも、できないことはある。
現実を突きつけられ、吹奏楽部に入部してパーカッションを担当することになりました。

「大人って『いいこと』を言うんだな」と皮肉交じりに思っていましたね。
偽善に敏感になり、本当の意味で私のことを考えてものを言ってくれる人はいないのだと感じるようになりました。

学校側への反発心から、中学2年生の後半には生徒会会長に手を挙げました。
大した学校改革はできませんでしたが、マフラー禁止という意味のわからない校則をなくすことに成功しました。

中学までの間に、親や周囲から「十分与えてもらってきた、テイクしてきた」という感覚があり、高校からは「ギブする」立場になりたいと思うようになりました。
進学した男子校には、国際的な社会奉仕連合団体であるロータリークラブの下に位置するボランティアをする部活があり、そこに入部しました。

高校2年生の先輩がいなかったので、2年生で部長に。
そのタイミングで、ロータリークラブからタイ・カンボジアへのスタディツアープログラムがあるという知らせが入りました。
先生から「部長の藤原が行ってこい」と言われ「もちろん!」と応募しました。

現地では、物乞いの子どもたちに対してどう考えるかを議論しました。
大人たちは1,000円程度のお金であってもあげるべきではないと言うのですが、私は与える側の考え次第なのではと思っていました。
しかし、現地の子どもたちにとって大金である1,000円を与えることで、彼らを本当に幸せにできるとは言い切れませんでした。
幸せとは何なのか、そもそも日本は幸せな国なのか。
疑問やモヤモヤが生まれるきっかけになりました。

発展途上国の人たちが幸せになるには選択肢が必要。
そう考え、選択肢を広げられる仕事をしたいと思うようになりました。

また、国連の国際開発計画UNDPで仕事をしている人の話を聞き、UNDPなら自分がやりたい仕事ができるのではと感じ、ギブする立場として国連職員を志すようになりました。

UNDPの人から「貧困が定義されているから読んでみて」と紹介され、哲学者アマルティア・センの本を読みました。
難しい内容でしたが、前書き部分のところに書かれていた「人は選択肢が多ければ多いほど幸福を感じる」の言葉に、自分がやりたいことはこれだと直感。
ビビッと電流が走ったかのような衝撃を受けました。

その本の翻訳者が教鞭を取っていた大学の学部に進学することにしました。

2子どもたちに選択肢を与えられる仕事を

大学入学後は気持ちが緩み、遊びに時間を費やしてしまいました。
おまけに、大学を選んだ理由となった先生はゼミ選びの前に別の大学へ。
しかし、ゼミが始まる2年生の秋に出会った先生から「おまえはまだまだ甘い」と言われたことで目が覚めました。
やりたいことを話しても「何がやりたいことだ。今の君では叶えられないぞ」と一蹴され、悔しさを味わいました。

そこで、先生に「本気で経済を学びます」と宣言し、勉強に身を入れました。
同じころ、コンサルティングサービス会社のインターンに行きましたが、そこでも自分の能力のなさを突きつけられました。

すると、先生から「国連職員になりたいんだろ。それなら院に来い」と言われ、早期卒業制度という大学4年生を飛び級して院に進める制度を活用することにしました。
大学受験生並みに勉強し、無事に院に進学。
「幸福度とお金の関係性」をテーマに、世界中の国内総生産(GDP)と幸福度との関係性について研究しました。
GDPが上がっていっても幸福度は理論上、一定と言われていて、日本を含む多くの国がその傾向にあるんです。
しかし、ケニアだけは所得がそれほど上がらないのに幸福度が微増しているという特殊な傾向がグラフの波形に出ていて、「変わった国だな」と感じていました。

国連職員には日本の院を出ただけではなれない。
先生と相談し、外国の院進学を目指そうと考えていました。
しかし、あるとき国連関係の仕事に関するサイトから「ケニアでNGOとして活動できます」というメールが届いたことで、院進学ではなくケニアに行くことに。
NGOとして収入を得ながら一年間活動できること、頭の片隅に残っていた「ケニア」であることが進路を決めた理由でした。

ケニアにてNGOでの活動に従事する様子

ケニアにてNGOでの活動に従事する様子

1年間のNGO活動で、私は何もできませんでした。
学校の建設に携わり、子どもたちに教育の機会を提供できたこと自体には喜びを感じていましたが、教室を作ることでケニアの子どもたちが笑顔でい続けられるのだろうかと自分に問いかけてみると、違うと思ったのです。
与えられたことしかできていない感覚にもどかしさを感じていました。

貧困に関しても、もっと何かできるはずだと思っていたのに、実際には何もできなかった。
「明日のご飯がない」と言われたとき、解決できるだけの知識がなかったんです。
手段を思いついても、どう進めていけばいいのかわからなかった。
そんな中で、発展途上国の人たちにも、自分たちでお金を稼いで経済を循環させる仕組みが必要だと思うようになりました。
また、与えられた予算内でしか取り組めないNGO活動にも限界を感じ始めました。

国連機関でインターンシップをしていた後輩からは「国連でもやりたいことはできないですよ」と聞いたこともあり、国連職員を志す気持ちが薄らいでいました。
そのため、帰国後には就活を行うことに。
時期がズレていたので募集が外資系しかなく、縁のあったIT会社に入社し、コンサルタントとして働き始めました。
コンサルタントという仕事は大企業の人たちに選択肢を与えるものなので、どのような提案をすれば喜ばれるのかという感覚をつかんでいきました。

数年が経ち、ふと「自分の仕事は、ビジネス界の人たちを幸せにしているだけだ。今後40年、50年、もっと違う世界の人たちも幸せにしたい」という思いが芽生えました。
ただ、自分のやりたいことが「人に選択肢を与える仕事」であることに変わりはなく、達成感もあるのは事実でした。
そこで、自分が何をやりたいのかを改めて考えてみたのです。

思い浮かんだのが、私が小1のときから母が営んできた塾でした。
母は地域の子どもたちに居場所を提供し、彼らが大人になっても「塾長!」と会いにくるような関係性を築いていました。
また、国際開発協力の活動で、最終的には「教育が大切である」という結論に行き着くことが多かったことも思い出しました。
自分がやりたいのは、大人ではなく、これから可能性のある小中高生たちに選択肢を与える仕事だと結論づけました。

毎年、正月に一年の目標を立てるようにしています。
2019年は「起業」を目標にしました。
組織だと枠組みの中でしか働けない。
それなら自分でやる方がいいと思ったのです。
塾の中でも、一般受験の塾は市場が飽和気味で競合が多い。
そこで目をつけたのがAO入試でした。

AO入試は「一芸入試」と言われていたこともある、小論文や面接、志望動機書などで出願者を総合的に見て合否を決める入試です。
学科試験だけで判断されないため、自分の偏差値より高い大学に入れる可能性もあります。
母の塾でも、ボランティア経験と英語の評定3.5以上、英検2級保持者の子が、自分の偏差値より20ほど上のクラスの大学に入ったという実績が出ていました。
そのことを知り、AO入試の可能性やニーズを感じたのです。

AO入試に特化した塾を考え、競合分析をしてみると、AOIという塾が出てきました。
私が目指すところと合致していて、起業の参考にしようと「ボランティアで働かせてください」と連絡を取り、コンサルタントの仕事とダブルワークする形で関わり始めました。
その後、2020年1月にコンサルティング会社を退職、AOIに専念することを決めました。

独立を考えていたのに入社を決意したのは、「人」が理由です。
特に代表と出会えたことが大きかったですね。
代表とは「子どもたちの選択肢を軽はずみな『無理だよ』で狭めず、応援したい」と語り合い、「目指す世界観がこんなに一致することがあるんだ」と驚かされました。
ここでなら私のやりたいことを実現させられる。
AOIで子どもたちに選択肢を与える仕事をしようと思ったのです。

総合型選抜専門塾AOIのサービスサイト

総合型選抜専門塾AOIのサービスサイト

3「衝動」に気づかせる存在になりたい

現在は、AOIの塾長として塾の運営に携わっています。
志望理由書、小論文、面接対策がメインで、高校3年生の子たちに内省を促すことが役割です。
まず自己分析をしてもらい、志望理由書や面接で語る「やりたいこと」を言語化していきます。
小論文では添削、面接では実際の面接官より厳しい目で面接指導を行います。
すると「やりたいことがない」と言っている子たちが、内省をしていくことで言葉に表せるようになるんです。
中には、こちらの想定を超える壮大な夢を語れるようになる子もいて、高校生の可能性の大きさに感動させられています。

AOI塾にて、生徒の指導を行う藤原さん

AOI塾にて、生徒の指導を行う藤原さん

2年ほど塾で高校生たちと関わってきて、どうしても「受験合格」がゴールになってしまっていることに歯がゆさを感じています。
本当は、大学入学はスタートなんです。
私は大人になったあとも、自分らしい人生をワクワクしながら送れる人を増やしたい。
そのために、将来的には理想の教育を体現できる高校をつくりたいと考えています。
夢を描いたり実現させたりする教育を、誰もが受けられるような世界観を実現したいですね。
次世代の日本をつくれる人材を、教育で輩出するのが私の役割だと思っています。

今の私があるのは母のおかげです。
本音で言えば健常者として私を生みたかったでしょうし、私と代わりたいと思ってくれたこともあったでしょう。
だからこそ、健常者と変わらず挑戦できる人間に育てようとしてくれたのだと思っています。

子どもたちに塾で勉強を教え、塾を卒業したあとも慕われる関係性を築いてきた母のように、私も彼らと関係性を構築していきたいと思っています。
ジョン・デューイという教育者の言葉に「自分がやりたいと思ったことは衝動に変わる」というものがあります。
衝動を与えることはできないけれど、気づかせることはできる。
子どもたちには「それはやりたいこと?」「本当にやりたいことはできるよ、やってみなよ」と伝えていきたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年9月)のものです

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