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被災体験話を消費されるだけにしたくない。
安心を守る術を伝える「歌う防災士」
【歌う防災士しほママ・柳原志保】

目次
  1. 根っからのエンターテイナー志向
  2. 子どもの心を守るため、仕事を辞めて熊本へ
  3. 安心への備えは、気持ちのゆとりにも繋がる

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、「歌う防災士しほママ」として活動する柳原志保さんをご紹介。

東日本大震災後、熊本県に移り住んだ柳原さん。求められるまま始めた被災体験の講演会を機に、安心できる生活を送るための知識を伝える重要性に気づいたと言います。柳原さんが活動に込める思いとは。お話を伺いました。

1根っからのエンターテイナー志向

私は親から「口から生まれてきた」と言われるほどおしゃべりで、人を楽しませたい気持ちが強い子どもでした。
高校3年生のころ、偶然テレビで宝塚歌劇団の舞台を見て、すっかり虜に。
そこからバレエと声楽を習い、宝塚歌劇団を受けたのですが、残念ながら落ちてしまいました。

舞台の世界を諦めきれず、大学ではミュージカル活動に没頭。
五感をフルに使い、どうすれば目指す表現ができるのかを追求していました。
台本の執筆や演出にも携わり、他の演者がどうすれば輝けるのか、より魅力的に見せられるのかを考えることも楽しかったですね。
そうして迎えた本番。
多くのお客さんの前で表現する楽しさと気持ちよさは格別のものでした。

多賀城市民ミュージカルの舞台の様子

多賀城市民ミュージカルの舞台の様子

卒業後は舞台の裏方となるダンス専門学校に就職。
教務という担任の先生に近い立場で、学生たちと関わり始めました。
学生たちにとっての先生はダンスを教えるプロフェッショナルであり、私は自分を彼らのサポーターのような立ち位置だと捉えていました。
二十歳前後の学生たちに対し、私は大学を出たばかりだったことから、少し年上の友達のような関係を築いていました。

さまざまな事情や個性を持つ学生たちと接しながら、どうすればやる気が湧くのか、どうアドバイスをすれば満足いく就職ができるのかを考えていました。
学生たちを輝かせたいと思っていたんです。

その後、会社の倒産により転職したり、ハードな仕事に体調を崩してしまって退職したりと仕事を変えていく中で、再び地元の宮城県多賀城市で暮らすことになりました。
芸能スクールの仙台拠点のオープンに携わりましたが、またもや運営会社が倒産。
一旦パートで働くことにし、一年半ほど経ったころ、付き合っていた人と結婚することになりました。

2人の息子に恵まれましたが、結婚8年目で離婚。
再び正社員の仕事を探すことになりました。
30代後半のシングルマザーが正社員として働ける職は、宮城にはあまりありません。
懸命な就活の結果、大手ビジネスホテルチェーンの仙台店で支配人として勤めることに。
母の協力も得ながら転職しました。

2子どもの心を守るため、仕事を辞めて熊本へ

2011年3月11日。
保育園に次男を迎えに車を運転している最中、大きな揺れに遭遇しました。
揺れが収まったあと、急いで保育園に行き、帰宅したところ、母も小学校1年生の長男も無事で、家もさほど壊れてはいませんでした。
ひとまず自宅にいようと思ったのですが、消防サイレンの「津波がくるから高台の避難所に行ってくれ」という指示に従い、わけがわからないまま丘の上にある小学校の体育館を目指しました。

避難所に着き自宅方向を見下ろしたところ、特に津波が来ている様子は見られませんでした。
不安を覚え始めたのは、日が暮れてだんだんと暗くなってきたころのこと。
避難所の電気がつかず、インフラが遮断されてしまっていることに気づいたんです。
夜になるとあたりは真っ暗闇に。
再び外を見てみると、街の一角が赤く染まっているのが見えました。
海岸のコンビナートが炎上していたんです。
暗闇の中、炎の赤だけが見える景色を見て、ふと戦時中はこんな風だったのかなと思いました。

情報を得られる手段も限られていました。
ラジオで津波による犠牲者についての情報を知ったものの、実際にこの目で津波を見たわけではありません。
音声で被災状況を聞くだけでは、一体どれくらいの規模の被害が起きているのか、よくわかりませんでした。
インフラが途絶えてしまい、避難所とはいえ快適ではありません。
寒いし、食べものもないし、トイレは汚い。
何もかもが困ることだらけでした。
避難所に行きさえすれば助けてもらえると思っていたのに、そうではなかった。
自分の甘さを痛感しました。

少し落ち着いたころ、自宅に帰りました。
シャッターに何かがぶつかってぐちゃぐちゃになっていたり、浸水被害を受けたりといった状況ではあったものの、幸い片付ければ住める状態でした。

余震が続いていることに加え、衣食住も不安定だったので、落ち着くまで子どもたちには熊本県に住む妹家族の元に行ってもらおうと考えました。
しかし、保育園児の次男は「絶対ママといたい!」と拒否。
長男だけが行くことになりました。
本人には旅行感覚もあったと思います。
ランドセルにマンガ1冊と避難所でもらったパンを入れ、一人で熊本に旅立ちました。
一方、次男は母に世話をお願いすることに。
ママがいいと言っていた次男ですが、交通インフラが復活するまで、私は彼から離れてホテルに住み込みで働かざるを得ませんでした。

夏、長男が熊本から宮城に帰省してきました。
楽しげに熊本に行った長男でしたが、やはり家族と離れて暮らすのは寂しかったのでしょう。
「もうここにいたい。帰りたくない」と言い出してしまい、そのまま宮城に戻ってくることになりました。

しかし、宮城の状況は落ち着いたわけではなく、余震も収まっていません。
そんな不安定な中、私は仕事で子どもたちが起きている時間帯に家にいられない生活が続きました。
支配人という立場上、休日でも深夜でも、呼び出されればホテルに行かなければなりません。
しっかり子どもたちと向きあうことができない中、彼らの心が限界を迎えてしまいました。

ある日、仕事から帰ると、母から「仕事の代わりはいるけど、母親の代わりはいないんだよ」と言われました。
その言葉を受け、状況の深刻さを痛感。
貯金はしてきたし、失業手当ももらえる。
今はとにかく、子どもたちの心のケアをしよう。
そこで、思い切って会社を辞め、母子3人で再び熊本に行くことに。
余震のない土地で一時的に暮らそうと思ったんです。

移り住んだ熊本県和水町は、方言も食べものも宮城とは異なります。
そんな新たな環境で、まずは地元の方たちとの関わりを持とう、ここにこんな母子が住んでいることを知ってもらおうと意識していました。
人との繋がりが助けとなってくれることを、被災経験から痛感していたからです。

ひとまずのんびり過ごそうと思っていた矢先、妹から「地域おこし協力隊」について聞きました。
移住者向けの制度で、3年間の任期中、報酬をもらいながら活動できるものです。
お世話になる和水町に恩返しができるならと思い、協力隊に応募。
活動を始めたところ、被災体験を住民に話してほしいと依頼を受けるようになりました。

私の体験が誰かのためになるならと話し始めると、話を聞いて涙を流してくれる人、私たちのために募金活動をしてくれる人たちが出てきました。
講演後にはNHKの東日本大震災復興支援ソング「花が咲く」をみんなで歌うように。
東北からの移住者ということで、メディアからの取材を受ける機会も出てきました。

被災体験を話し始めた当初の様。子ども2人と一緒に

被災体験を話し始めた当初の様。子ども2人と一緒に

熊本の人たちの温かさに胸を打たれる一方、漠然とした違和感もありました。
その原因が何なのかはっきりしないまま時間が経ち、メディアでの震災の取り上げられ方にもモヤモヤを感じるように。
理由を考え気づいたのは、被災の話が熊本の人たちにとって「対岸の火事」のようなものになってしまっているということでした。

阪神大震災の特集をテレビで見ていたとき、私は自分が同じような立場になるかもしれないなんて想像もしていませんでした。
地震に備えておかなければと思うことなく、日々の生活を送ってきました。
それと同じで、私の被災体験の講演も東日本大震災のメディアでの取り上げられ方も「こんな被災者がいます」「被災後はこんな事をしています」で留まってしまっていて、「こうしておくといいんだ」という防災意識を高められていなかったんです。

講演できるレベルの知識を身につけようと、防災士の資格を取得。
しかし、専門的な知識をそのまま伝えるのでは内容が硬くなってしまい、聞き手に伝わりにくいだろうと思いました。
どう話せば防災の大切さを伝えられるかと模索しているとき、知人に紹介されて男女共同参画社会づくりのリーダー育成研修に参加することになりました。

研修を受けていたある日、「男女共同参画と防災」という写真展のポスターが目に留まり、立ち寄ってみることに。
そこで知ったのが、避難所で授乳や着替え場所がないことや生理用品の不足など、女性目線で見た災害のつらさでした。
挙げられている事例に共感しながら、私も女性や母親目線の防災を伝えられるのではないかと思ったんです。

防災と聞くと、備品の備えをイメージされるかもしれません。
私のように、いざというときに助け合える人との繋がりを大切にしている方もいるでしょう。
しかし、これらは全て命あってのもの。
まずは自分の身を護る術を伝えなければならないと思いました。
また「防災」とすると万が一のことのように思えてしまうことも課題だと感じ、「安心」という言葉を積極的に使うように。
安心できる生活を送るための取り組みなら、平常時から意識しようと思えるんじゃないかと考えました。

地域おこし協力隊の任期後は、婚活センターで働きつつ、数ヶ月に1回ペースで講演活動を続けました。
そんなある日、熊本地震が発生しました。
災害後には防災意識の向上から講演依頼が急増。
活動に注力するため、仕事を防災啓発活動一本に絞ることにしました。

熊本地震後の和水町での地震がきっかけで、子どもの意識も変わりました。
これまで「防災防災うるさい」「テレビの取材がくるのが嫌だ」と口にしていた次男が、当時熊本県最年少となる13歳で防災士の資格を取得したのです。
そこからは、親子で防災啓発活動ができるようになりました。

防災イベントにて親子で活動を行う様子

防災イベントにて親子で活動を行う様子

一年ほど子どもと活動に励んだところで、コロナ禍に。
講演依頼が激減したため、映像で伝えるべくYouTubeを始めました。
多くの人に届けるためにはキャッチーさが必要だと考え、「歌う防災士しほママ」と名乗り、制服のようにいつでも同じエプロンを身につけるように。
子どもにも楽しくわかりやすい発信を意識しています。

YouTube動画「歌う防災士しほママ『ダンゴムシ体操のうた』」サムネイル

YouTube動画「歌う防災士しほママ『ダンゴムシ体操のうた』」サムネイル

3安心への備えは、気持ちのゆとりにも繋がる

現在は「歌う防災士しほママ」の活動を続けつつ、「安心」を軸に活動を広げています。
企業と一緒に防災を通して地域を元気づける取り組みを行ったり、ひとり親家庭を支援するためのフードバンクや子ども食堂の活動に携わったり。
シングルマザーの方たちは、わざわざ防災講演だけに足を運ぶ時間や精神的余裕がない方も多いです。
食べものを取りに来たお母さんや子どもたちが防災にふれられるきっかけになればと、会場の片隅で楽しく防災工作をするなど、防災への入口をつくっています。

ひとり親家庭支援イベントでの防災工作の様子

ひとり親家庭支援イベントでの防災工作の様子

どの活動も、私の創造力や発想力に可能性を見出してくれ、「柳原さんにお願いしたい」と声をかけてもらったことがきっかけです。
「柳原さんと話していると元気になれる」と言っていただけると、うれしいなと思いますね。

安心のために備えると、気持ちにゆとりが生まれます。
ゆとりがあると、自分や家族以外の人たちにも思いをはせることができるのだと実感しています。
その連鎖が楽しい人生や、より良い社会に繋がっていくと思うんです。
自分の安心のための備えが社会の好循環に繋がることを、多くの人に知ってもらいたいと願っています。

今、防災士の資格を取った次男は高校でラグビーをがんばっています。
将来は自営業で仕事をしたいのだそうです。
今の私の活動は、子どもたちあってのことだと思っています。
彼の人生なので口出しはできませんが、何らかの形で、これからも一緒に防災の取り組みを母子でできたらうれしいですね。
今はひとまず日本全国に「歌う防災士しほママ」を広げ、楽しみながら「安心」に備えられる人を増やしたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年9月)のものです

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