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地元を「面白くない街」にしたくない。
市民や企業と共に徳島の未来をつくる
【徳島市長・内藤佐和子】

目次
  1. 社会に貢献できる人になりたい
  2. 同窓会で目の当たりにした地元の変化
  3. 市民や企業と共に徳島の未来をより良いものに

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、徳島市長の内藤佐和子さんをご紹介。

東京に進学し、地元に戻るつもりはなかったという内藤さん。同窓会で久しぶりに帰ったとき、地元の変化を目の当たりにし、若者にとって面白味のない街になっていることを課題に感じたそうです。徳島市長となった内藤さんが目指す未来とは。お話を伺いました。

1社会に貢献できる人になりたい

私はチャレンジ精神が旺盛な子どもでした。
自我が強く、親の言う通りにするタイプではありませんでした。
父は「どんどんチャレンジしなさい」と背を押してくれましたが、母は「女の子なのだからそこまでは…」と言うこともありました。
ただ、私自身はあまり性別を意識していませんでした。
男子と一緒にサッカー部に入っていたときには、「サッカーは男子がするものだ」という周りの雰囲気に対して「そんなのどうでもいいのにな」と思っていました。

同居していた祖母から、よく「平和な時代に教育が受けられることは普通のことではないよ。感謝しなくてはならないんだよ」と言われていました。
祖母は頭が良かったのですが、父である曾祖父が事業に失敗して経済的に苦しかったことに加え、「女の子だから」という理由で上の学校に通わせてもらえなかったそうです。
「満足に学ぶことができなかった」悔しさがあり、私に当たり前のように教育を受けられるありがたみを伝えたかったのでしょう。

祖母自身が戦争時代を生き抜いてきた世代の人ですし、テレビで戦争について取り上げられていたのを見ていたこともあり、小学生ながら「恵まれている幸運な世代なんだな」と思っていました。
恵まれている分、誰かのためになることをしなければと考えるようになり、漠然と「社会に貢献したい」という夢を抱くようになりました。

小学校卒業後は、中高一貫校に進学。
アメリカに交換留学できるプログラムについて知り、中学3年生のとき、応募に必要な試験を受けることに。
世界で活躍したいと思っていたので、英語は基本であり、アメリカ文化にふれることが大切だと考えていました。
また、若いうちに親元を離れ、簡単に誰かに助けてもらえない環境で生活する経験をしておいた方がいいとも思っていました。

結果、合格して、高校1年生で11ヶ月間アメリカに行けることになりました。
母は中学生で挑戦しても合格するはずがないと思っていたらしく、現実に行くことが決まったときには「本当に行くの?」と驚かれました。

交換留学制度では、自分が行くエリアを決めることができません。
私はニューヨークやワシントンなど都市部に行く自分をイメージしていましたが、実際に行くことになったのはテキサスでした。
人より牛が多い様子に、「徳島より田舎じゃん、思っていたアメリカと違う!」と思いましたね。
白人と黒人とヒスパニックが入り混じる場所で、日本人は珍しい存在でした。

リンカーンの伝記を読んだり南北戦争の歴史を学んだりしていたので、黒人差別についてある程度イメージや知識を持っていました。
実際、現地には白人と黒人が交際していたら白人年配者がいい顔をしないといった差別の雰囲気がありました。

日本人である私に対してもそうで、現地でできた白人の恋人は母親から「日本人と付き合うなんて」と言われたそうですし、陰で差別用語を言われたこともあります。
いざ自分が差別される側の立場を経験したことで、社会的マイノリティの生きづらさを痛感しました。

アメリカ留学中には、世界中の留学生と一緒に20日間のバス旅行も経験しました。
ニューヨークやワシントン、フロリダなど、アメリカの東半分に位置するさまざまな都市を見て回る中で、場所によって雰囲気も人の考え方の傾向も大きく異なるのだと知りました。

また、国による同世代の差も痛感しました。
例えば、スイス人だと16〜17歳で5ヶ国語を当然のように話せたりするんです。
こんなに違うのかと驚きながら、それでも私たちは彼らと一緒に世界を良くしていかなければならないんだと思いました。

2同窓会で目の当たりにした地元の変化

世界で活躍したい、社会的マイノリティを支援する弁護士になりたいという夢を抱きながら、東京大学に進学。
卒業後は海外のロースクールに進学し、海外で仕事をしたいと思っていました。
しかし、20歳の3月ごろ、体調に異変を感じます。
病院に行き検査を重ねた結果、8月に「多発性硬化症」という病気だと告げられました。
突然、目の前でシャッターをガラガラと閉められたような絶望を感じました。

留学に行き、東京大学に進学し、自分の描いた道を順調に歩んできた感覚がありました。
それが、「あなた、明日から目が見えなくなるかもしれませんよ」「歩けなくなるかもしれません」「弁護士はストレスがかかる仕事だから無理でしょうね」と言われてしまったのです。
どん底に突き落とされた気持ちでしたね。

しかし、母から「自分で悩んで考えて変えられるなら落ち込めばいいけど、そうじゃないなら落ち込んでいても仕方がないよ。もう難病になってしまったんだからしょうがないでしょう」と言われ、気持ちを立て直しました。
そこからは、今できることは全部やった方がいいと思うようになり、これまで以上に前のめりにさまざまなことに挑んでいきました。

ビジネスコンテストに参加して、留学生とルームシェアできる事業をしてみたり、インターネット通販会社のサイト運営や学生マーケティング会社などベンチャー企業に経営者として参画したり、学生記者活動をしてみたり。
実家がしている事業の役員になり、東京にいながら海外に機械を輸出する際の説明書の英語翻訳も担っていました。
病気のこともあり「徳島に戻ってきたら?」と親から言われたこともあったのですが、戻るつもりは一切ありませんでした。

22歳ごろ、高校の同窓会に参加するため、徳島に帰りました。
飲み会後に「プリクラを撮りに行こう!」とみんなで昔行っていたゲームセンターに行ってみたら、そこにあったのはシャッター街。
ゲームセンターはありませんでした。

思えば、高校2年生のころ、郊外にシネマコンプレックスがあるショッピングセンターができたくらいから、街から映画館が消え始めていたんです。
それでも、私が高校生のころには身近にアパレルショップやファストフード店など、学生の遊び場がありました。
その変化は私にとって衝撃で、徳島が面白くない街になってしまっていると気づいたできごとでした。

いくら郊外にショッピングセンターができても、中高生は移動手段が限られています。
徳島には自転車や本数の少ないバス、汽車しかありません。
そんな中高生たちが「徳島って本当に何もないところなんだよね」と思いながら地元を出ていくのはつらいことだと感じ、まちづくりに興味を抱き始めました。

数年後、徳島に戻ることを決めました。
東京ではスタートアップ企業が身近でしたし、私のような東京大学卒者には官公庁や大企業に入る人も多くいます。
私は大勢の中の一人、「ワンオブゼム」なのです。
でも、徳島では私のような経験をしてきた人は稀有な人材になるのではないか、貢献できることが多くあるのではないかと思ったんです。

徳島に戻った私は、地方に足りないところを全て請け負う形で活動を広げていきました。
中小企業向けにコンサルティングを開いたり、PR活動や商品企画の手伝いをしたり、商工会議所主催の講演に登壇し、地域の企業にクラウドファンディングの説明をしたり。
市街地で大学生が集まる場づくりをするなど、若者との活動も行っていました。
市や県など行政との企画に携わり、各種審議会や有識者会議のメンバーに参加。
行政の取り組みの現状にも精通するようになりました。

さまざまな場所で取り組みを進める中で、ソフト面の対策や下からアプローチする変革では、どうしても市を大きく変えることは難しいと感じるようになっていきました。
トップの意思決定がなければ先に進まないことが多いという思いが強まってきた2019年末ごろ、次の徳島市長選挙が、初の無投票になるかもしれないという話が浮上しました。

行政の活動に携わり、市と県がホールの建設問題で揉めていて関係性が悪化していること、その影響でまちづくりがうまく進まなくなっている現状を知っていました。
このまま悪化し続ければ、市の活動に支障がさらに出るでしょうし、市民にとっても悪影響が及び始める。
ここで立て直そうという候補者が誰も出ないなら、私が出よう。
そう決意し、出馬を決めました。

公務員経験や政治家経験はありませんでしたが、これまでの活動から市や県の計画を総合的に知っているのは私だという自負がありました。
市議や県議で応援してくれる人を募り、これまでの選挙ではあまり活用されていなかったSNSでの発信も積極的に実施。
作成したマニフェストを含め、情報発信に力を入れました。
若い世代や私と同世代、子育て中のお母さんたちを巻き込み、一緒にYouTubeのコンテンツをつくるなど、市民も巻き込む新しい選挙活動をした結果、当選を果たしたのです。
市と県のもめごとの原因となっていたホールは、県立ホールとして建設することで決着させ、早々に関係性を立て直すことができました。

3市民や企業と共に徳島の未来をより良いものに

現在は市長になって2年目です。
徳島市職員の部長クラスは50代後半の男性中心で、女性部長は一人しかいません。
そんな環境下ですから、市長1年目は突然外部から若手女社長が据えられたような状態で、周りもどうコミュニケーションを取っていいかわからなかったと思います。
そうした事情も考え、積極的にコミュニケーションを取るよう意識してきました。

市役所内は縦割りで、若手職員は市長と顔を合わす機会すらないことも珍しくありません。
役所内の風通しを良く、フラット化させたいと思い、行政版LINEを導入してダイレクトに報告を受けられるようにしたり、市役所内を歩き回って顔を合わせた職員にカジュアルに声をかけたりしています。

私が力を入れたいのは、ダイバーシティやイノベーションへの取り組み、ジェンダーギャップの解消です。
2年目に入り、少しずつ社会的マイノリティの方への支援の必要性を意識する職員が増えてきたと感じています。
「ジェンダーギャップ」という言葉すら知らなかった人もいる状況ですから、「知った」ことがまず大きな進歩だと思うんです。
パートナーシップ制度からファミリーシップ制度へ拡充をしたり、女性が働きやすい環境を整えたりと、一歩ずつ政策も実現しています。

業務改善については、ハンコレスやファックスレス、デジタルトランスフォーメーション(DX)などの手段に話が飛びがちで、「よくわからない、苦手」と感じている人が多くいました。
そこで、「まず大切なのは現状の業務の見直し。いらない業務を捨ててから新しいものの導入を考えましょう」と伝えています。

また、伝統文化の継承にも関心を寄せています。
特に阿波踊りは、コロナ禍の影響で昨年は開催中止、今年は縮小開催となりました。
これまでは毎年開催されることで自然と引き継がれてきた側面があったので、改めて次世代にどう繋いでいくのかを考えるきっかけになっています。
イノベーションについても、スタートアップなどとの文脈を活かして連携協定などを進めています。

政治家として取り組みを続けていく一方、ニーズが多様化する中、行政だけで何かを解決できる時代は終わったと思っています。
これからは市民や企業と一緒に市の課題を解決していく時代です。
子育て環境の整備には子育て世代が一番関心を示すように、問題解決に一番熱心なのはその当事者たちです。
そんな一人ひとりと一緒に徳島の未来をより良くしていきたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年8月)のものです

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