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何も持たない自分の武器は「会社」。
インターネットを使った、社会課題解決に挑む
【ヤフー株式会社 SR推進統括本部/フィッシャーマン・ジャパン事務局長・長谷川琢也】

目次
  1. 自分の原点を思い出した東日本大震災
  2. 課題解決会社の社員としてできることを実践
  3. これからも会社員を武器にして活動したい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、ヤフーの会社員として働きながら、副業で漁業の課題解決に取り組む長谷川琢也さんをご紹介。

震災を機に石巻に移住し、会社員として復興支援活動を始めた長谷川さん。あくまで会社員として活動し続ける理由とは。お話を伺いました。

1自分の原点を思い出した東日本大震災

東京で生まれ、その後何度か引っ越し、横浜市のいくつかの町で育ちました。
ニュータウン暮らしで田舎というものがなく、夏休みが明けて友達がふるさとのお土産を持っているのが羨ましかったですね。

3月生まれで同級生より体が小さく、病弱で体調を崩しがちだったこともあり、周りの体が強くて運動ができる友達に常に劣等感を感じていました。
それでも生物の勉強だけは得意で、学年ではいつも1位。
誰にも負けないものが初めてできたことがうれしくて、生物の道に進むと決めました。
好きな学問を極めて、将来はノーベル賞を取って、世の中の役に立てたらいいなと思っていました。

大学では遊びやアルバイトが忙しくて勉強から遠ざかってしまいました。
そんな中、「windows95」が発売され、世の中にパソコンが普及し始めました。
同時に、急速に整備が進んでいったインターネットに興味を持ち、調べるほどに可能性を感じて夢中になりました。

また、課題に感じていた地方の活気がどんどん失われてしまっている問題について、インターネットを使えば解決できる可能性があるとも感じました。
地方それぞれの情報を全国に伝えることによって、地方に魅力を感じる人を増やせるのではと思ったんです。
インターネットと何かを掛け合わせ、それによって多くの人を幸せにし、日本を元気にしたいと思うようになりました。

大学卒業後は生物かITどちらかに関わる仕事をしようと思い、たまたま両方の事業をやっていたベンチャー企業に就職することに。
エンジニアとしてクライアントのサービスに関わるうちに、自分が主体となってサービスをつくりたいという思いが大きくなっていきました。
それと同時に、自分の立ち位置を明確化したいと考え、漠然と「プロデューサーになりたい」という思いも芽生えました。

カッコいいプロデューサーがたくさんいる会社として思い浮かんだのがヤフーです。
当時のヤフーは、「Yahoo!オークション(現・ヤフオク!)」や「Yahoo! BB」といったサービスが立ち上がったころで、「こんなサービスを考えて実現させてしまう人たちに会いに行きたい!」と思いました。

ほぼ記念受験のような気持ちで中途採用試験を受けたところ、合格。
エンジニアと企画とを繋ぐ翻訳者としてのディレクターが不足していて、そこにちょうどはまる若い人材ということで採用してもらいました。
自分としては、拾ってもらったという感覚もあり、その恩に対して報いたいと思いました。

入社8年目の2011年3月11日。
私の誕生日に、東日本大震災が発生しました。
朝は「おめでとう」と言われて幸せに過ごしていたのに、午後に社会が一変。
テレビで東北の映像を見て、被害の大きさにたまらない気持ちになりました。

Twitterを見ていると、助け合っているエピソードがたくさん流れてきました。
物資を集めて送ろうとか、お金を寄付しようとか、助け合うための情報が広がっているのを見て、自分がインターネットでやりたかったことを思い出したんです。

そこから、自分たちにできることをやり始めました。
チャリティーオークションを実施して芸能人からも出品の問い合わせを受け、数日で何億円も集めることができました。

震災から3ヶ月後には、石巻と南相馬に炊き出しに訪れました。
しかし、私はそこまで体力があるわけではなく、泥かきや炊き出しなど体を動かすものでは足手まといになってしまう。
自分は何もできないのだから、ヤフーという存在を活かして何かをしなければと思っていました。

何ができるだろうと考えていたとき、地元の人たちから「インターネットで情報発信がしたい」と相談されました。
「悲惨さ」ではなく、もともとあった地域の「素敵さ」や生産地としての「おいしさ」を前向きに発信したい。
完全に販路を失う前に奇跡的に残った商品や、少しずつ戻っていく生産ラインなどを使って作ったものを売っていきたい、という話を聞き、それならインターネットを使えば力になれる、と思いました。

そこで、会社とコミュニケーションをとりながら、被災地のものを売る「復興デパートメント」という場所をウェブ上に立ち上げました。

2課題解決会社の社員としてできることを実践

自分以外にもたくさんの人が、いろいろな関わり方をしていた震災復興に向けた取り組みですが、震災から1年を機に、関わる人員を縮小することになりました。
会社として復興支援活動を続けられなくなるかもと悩んでいたとき、一緒に仕事をしてきた上司が新社長に就任することに。
そして、新社長が「復興支援室を立ち上げ、活動を続けろ」と背中を押してくれました。
思いを持って活動していただけに、続けられる道筋を会社から用意してもらえて、ありがたかったですね。
石巻にある新聞社のビル1階に「ヤフー石巻復興ベース」という拠点を設け、そこで新しい体制で復興支援活動を続けていけることになりました。

復興デパートメントの活動を通し、漁師たちとの関係が深くなっていきました。
一緒に復興デパートメントで漁業系のプロジェクトをするだけではなく、人手不足や魚の消費量の減少といった漁業全体が抱える課題についても話を聞くようになったのです。

そこで、その課題解決をするため、「フィッシャーマン・ジャパン」という団体を漁師たちと立ち上げることに。
「臭い」「汚い」「危険」といった漁師の3Kイメージを払拭し、「カッコいい」「稼げる」「革新的」の新3Kの体現を目指す活動を始めました。

フィッシャーマン・ジャパンの活動は、ヤフーの既存サービスとは直接関係がありません。
それでも活動を始めようと思ったのは、社長や経営陣の「世の中の課題を解決する人であれ、サービスであれ、会社であれ」という言葉があったからでした。
その言葉に背中を押され、課題解決会社の課題解決社員として、石巻で何ができるかを考えようと思ったのです。

フィッシャーマン・ジャパンとして活動中の長谷川さん

フィッシャーマン・ジャパンとして活動中の長谷川さん

フィッシャーマン・ジャパンでは、漁師を増やすための活動や、漁師や地域のブランディング、海産物の流通を変えるための輸出業や直営飲食店の運営など、さまざまな取り組みに挑戦していきました。
漁師という仕事には、長年の価値観に凝り固まってしまっている部分があります。
「ベテラン漁師のおじいちゃんがこう言ったから」で止まってしまい、変革を否としてしまうのです。
そこに対し、新しい挑戦を次々するフィッシャーマン・ジャパンは、漁師たちに「変わっていい」という姿勢を見せられていると感じています。

さらにヤフーのインターネットが強みとする情報発信力を活かし、地域や社会問題の周知、解決に活かすためのメディアの一つとして、海や環境の課題を伝えるメディア「Gyoppy!(ギョッピー!)」の立ち上げにも携わりました。

震災から5年目以降も継続が決まったとき、何となく「10年が区切りになるんだろうな」と思っていました。
そして、震災10年を前にした2020年、石巻復興ベースの閉鎖の話が出ました。
やっぱり終わってしまうのかという気持ちもありましたが、ここで区切りを付けるべきだろうとも思っていたので、反対はしませんでした。

石巻復興ベースに残っていたのは私を入れて3人。
そのうち、上司は東北でやり残したことがあるからと退職を決意し、私と後輩は退職はせず、副業としてフィッシャーマン・ジャパンの活動を続けることに決めました。

3これからも会社員を武器にして活動したい

2021年4月からは、ヤフーが新たに始めた企業版ふるさと納税の担当者として働き始めました。
企業版ふるさと納税とは、カーボンニュートラルや再生可能エネルギーに関する活動を推進しようとしている行政機関に、ふるさと納税で寄付をする取り組みです。

また、石巻復興ベース時代に立ち上げたメディアの拡張も決まりました。
今後はメディアを通して、海のことだけではなく、気候変動など環境のことや、さらにはもっと広く社会の課題を伝える活動も行いたいと考えています。
さらに、本質的なSDGsについて伝える活動も行いたいですね。

新しい仕事を始めたものの、居住地は今も石巻。
リモートも活用しながら仕事をし、副業でフィッシャーマン・ジャパンの活動を続けています。
東北の人たちが好きなので、石巻を離れることは考えられないです。
フィッシャーマン・ジャパンも、漁師さんたちが好きだという気持ちがモチベーションになっています。

「インターネット業界では、40歳になったら引退するくらいの気持ちでいた方がいい」。
昔、上司が私に言ったこの言葉がずっと印象に残っていました。
40代になり、次にどう渡すのかを意識し始めたところで、一つ大きな区切りがきたと捉えています。
自分の仕事をどう繋いでいこうか、より意識するようになりました。

副業のフィッシャーマンジャパンの活動でも、後輩や若い漁師がどんどん活躍してくれています。
私は裏方として、彼らが進むときに転ばないよう、石ころを拾う役目を担いたいです。

今でも、自分は本当に何の役にも立たない、使えない人間だと思っています。
謙遜でも冗談でもなく、私ができたことは他の誰でもできると思っているのです。
会社員になったら、あとはレールに乗り続けなければいけないなんてことはありません。
何もない私にとっての武器が「ヤフー社員であること」であったように、会社員であることは武器にできる。
そのためにはとにかく自分のやりたいことを言ってみる、やってみることが大切です。

私は「東北でのプロジェクト経験のあるヤフー社員」として、次の10年間もさまざまな仕事に取り組んでいきたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年8月)のものです

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