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留学生の母としてネパール人を支援。
日本とネパールを繋ぐ架け橋になりたい
【NPO法人J.I.L.S.A代表理事・佐藤かずみ】

目次
  1. ネパール人留学生のお母さん役に
  2. 留学生のケアサポートに力を入れたい
  3. ネパールと日本との架け橋を目指して

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、NPO法人J.I.L.S.Aの代表理事を務める佐藤かずみさんをご紹介。

ネパール人留学生の母として、彼らのケアサポートに取り組む佐藤さん。NPO法人を立ち上げ、ネパールでの産業づくりにも活動の幅を広げています。活動に込める想いと、目指したい未来とは。お話を伺いました。

1ネパール人留学生のお母さん役に

23歳のときに子どもを授かり、出産。
27歳で2児の母となりました。
私は心配性で、特に初めての子育てとなる長男には何かあってはいけないと、常に「危ない危ない」と先回りしていました。
しかし、あるとき夫に「親は365日24時間ずっとは見とけんのよ。この子が学校に行き出したら、学校についていくと?社会人になって何か問題があったと聞けば、会社に『何でうちの子にそんなことをするんですか?』と電話すると?」と言われ、はっとしました。
自分たち親は、子どもにつきっきりではいられないのだと冷静になりました。

そこからは、子どもが相談してきたときに助けてあげられる母親でいたいと思うように。
子どもの人生は子どもの人生、私の人生は私の人生と分けて考えられるようになりました。

子どもが小さいうちからパートの仕事をするなど、仕事と育児とで忙しい生活を送りました。

子どもたちが小学生になった頃、今後はより英語が必要な時代になっていくだろうから、彼らにも英語を学んでほしいと思うようになりました。
しかし、私自身が英語を話せませんし、海外に行ったこともありません。
子どもに伝えたところで、「お母さんだって英語できんやん」と言われてしまうと思い、まずは自分が学ぶことを考えました。

どうやって英語を学ぼうかと調べていたとき、フィジーにある日本人が運営する英語語学学校の存在を知りました。
実家に子どもを預けて数ヶ月間留学したいと思ったのですが、当時の私は県議会議員の事務所で県議のサポートの仕事を始めたばかり。
県議に聞いてみたところ、「2週間以上休みを取るのは難しい」と言われてしまいました。

同じころ、県議に勧められて「思考は現実化する」という本を読んでいました。
500人以上の成功者にインタビューをした本で、できないと思ったことも考え方次第で実現できるのだと感じました。
そのときから、私も思考を現実にするため、考え続けるだけではなく動こうと思うようになりました。
もともとやらないで後悔するより、やって後悔するほうがいいと考えるタイプだったこともあり、行動を開始。
留学以外で英語を学ぶ方法を調べてまわりました。

運よく、SNSを通じて知り合ったフィジー人の国際協力機関JICAのスタッフから、日本に興味を持っている弟を紹介され、彼を日本に呼びホストファミリーとして受け入れることに。
一緒に生活する中で英語に触れようと思ったんです。

私は英語がほぼ話せません。
彼も日本語が一切話せませんでした。
なんとかなるだろうと楽観的に捉えていたのですが、なんとかなりませんでした。
十分にコミュニケ―ションが取れなかったことも影響してか、来日3日後、ホームシックで「もう帰りたい」と泣かれてしまったのです。
彼の様子を見て、異国で言葉が通じないことがどれだけ不安なのかを痛感。
「どうにかなるだろうじゃなく、呼んだ私がきちんとしなければ」と感じ、本腰を入れて英語の勉強を始めました。
やはり、言語はコミュニケーションの基本であり、重要なのだと実感したのです。

それからは自分で英語を勉強し、彼とのコミュニケーションもなるべく英語でするように努力しました。
県議に許可を得て、職場にも彼を連れて行き、とにかく一緒に過ごすように。
「日本の写真を撮りたい」と言う彼と一緒に観光地にも出かけ、2ヶ月の滞在期間が終わるころには「楽しかった」と言ってもらえました。
彼と話す中で、私も次第に英語を習得。
これまでは、何かが起きる前に先回りして未然に防いでいました。
でも、仮に問題が起きたとしても、きちんと対応していけば、クリアしていけるのだと思えた出来事でした。

あるとき、職場の人が海外から日本語学校に留学生を連れてくるエージェントの仕事をしていると聞きました。
その人は、日本に来てからのケアサポートも一緒に行っていました。
長らく中国人や韓国人留学生が多かったそうなのですが、2013~2014年ごろからネパール人が増加。
ネパール人は英語が通じるため、「英語で彼らに説明してくれない?」と頼まれ、手伝うようになりました。

ネパール人と関わる中で、ネパールと日本とでは大きく文化が異なることを知りました。
たとえば、カースト制度があったネパールでは、ゴミを道にポイ捨てするのは当たり前で、ゴミを拾うカーストの人たちが掃除をする文化が根付いていました。
捨てられたゴミを拾うことは、ゴミを拾うカーストの人たちの仕事を奪うことになってしまうという価値観が今でも残っているのです。

ネパール人が日本に来て特に驚くのは、日本の綺麗さと英語が通じない国であること。
「日本は先進国なんだし、英語が話せれば大丈夫でしょ?」と思っているネパール人は多く、そうではないと教えることが必要だと感じました。
また、ネパールは大家族で暮らす人が多いため、日本の個人主義を寂しく感じることがあるとも知りました。

来日後の生活をスムーズにするためにも、文化の違いを事前に伝えておくことが必要。
そこで私は、来日前にできるだけコミュニケーションを取ることを意識するようになりました。

また、留学生と関わるときには、彼らのお母さん役に徹するようになりました。
ネパールには年長者を敬う文化があり、特にお母さんを大切にする価値観があると知ったからです。
我が子と同じように「何か困ったことがあったら言ってきてね。でも、嘘はつかないで。守ってあげたくても、嘘をつかれてしまったら守ってあげられなくなってしまうから」とたびたび伝えてきました。

2留学生のケアサポートに力を入れたい

2015年4月、ネパールで大地震が発生しました。
ネパールには日本のように耐震のことを考えた建物が少なく、家の大半はレンガを積み重ねてコンクリートで固めているような造りをしています。
それらの家が、地震により倒壊してしまいました。

「家と電話が繋がらない」「家族が死んでしまったかもしれない」と、ネパール人留学生からの電話が次々に鳴り響きました。
彼らが日本に留学に来て、長くて1~2年。
来日したばかりの学生も多くいました。
私が住んでいる北九州市にはネパール人留学生のコミュニティがまだなく、気持ちを分かち合える相手が少ない。
ネパールにいる家族ともなかなか連絡がつかない状況で、精神的に不安定になる留学生が増えました。

そんな状況下でも徐々に留学生同士での繋がりが生まれ、「この地域に住む私の家族とは連絡がついた」など、情報交換が行われるように。
しかし、どうしても家族と連絡が取れない人もいます。
不安に追い詰められているところから彼らが少しでも抜け出すために、他のことに目を向けるきっかけをつくらないといけないと思いました。

そこで、地域で毎年開催されているキャンドルナイトの主催者に声をかけ、ネパールのために何かできないかと相談。
すでにキャンドルのデザインは決まっていましたが、快く受け入れてもらい、急遽キャンドルのデザインに「PRAY FOR NEPAL」と入れてくれました。
そして留学生に声をかけ、準備から片付けまで、一連の作業を一緒に行いました。
ネパール人留学生だけで200人ほどが集まり、キャンドルを並べていきながら、みんなで一丸となって一つのことに取り組むことで得られるパワーの大きさを感じました。

キャンドルナイト当日の様子。集まったネパール人留学生たちとの一枚

キャンドルナイト当日の様子。集まったネパール人留学生たちとの一枚

さらに、ネパールに送るための募金活動も実施。
3日間で50万円を集めることができました。
別の学校に通う留学生同士が仲良くなれるきっかけにもなり、留学生コミュニティの大切さを実感。
NPO法人を立ち上げることができれば、こうした活動を自分たちだけでも行えると思い、設立を目指すことにしました。

地震から半年後、初めてネパールを訪問。
まだがれきだらけで、日本の地震後の復興ペースとの違いにショックを受けました。
また、母子のスキンシップの多さも感じました。
大きな子どもでも、お母さんとのスキンシップが多いのです。
留学生たちは、これだけ絶対的な存在である母親の元を離れて日本に来るのだと知り、日本に来た彼らが寂しくないように、何かあったときには話を聞いてあげようという気持ちがより強まりました。

裕福な家庭から来た留学生のケアサポートを行うところはすでにありますが、そうでない子たちはあまりケアサポートを受けられていない現状があります。
そうした子たちに手が届くNPO団体をつくりたいと思いました。
「困ったことがあった」と連絡をもらえたら何かしらの行動を起こしてあげられる、留学生たちと同じ目線で考えられる団体を目指し、地震から1年後の2016年4月、NPO法人「J.I.L.S.A」を設立しました。

NPO法人J.I.L.S.Aとして、駅で募金活動を行う様子

NPO法人J.I.L.S.Aとして、駅で募金活動を行う様子

NPOでは、日本語学校卒業後の進路相談に乗ったり、「こんなことをしたい」という留学生の話を聞いたりしています。
過去には、日本語学校から大学に進み、卒論を書くことになった子から「どう書けばいい?」「である調がわからない」と相談がくることも。
18歳くらいだった若者が、大学卒業目前にまでなっている姿を見ると、大人になったなと感慨深いものがあります。

また、留学生だけではなく、彼らの親ともビデオ通話で交流機会を設けています。
我が子が日本でどんな人と関わっているのかを知ることができ、安心してもらえているようです。
「よろしくお願いします」と言われるたび、この活動をしていてよかったなと思います。

活動をしながら、いつかネパールに拠点を移したいと思っていました。
子どもが成長したタイミングで、2020年2月にネパール行きを実現。
しかし、1ヶ月も経たないうちにコロナでネパールがロックダウンしてしまいました。
外出ができない中、オンラインで日本語を教えたり、日本について話したりと、できることをしていきました。
解除後には日本語センター、トレーニングセンターに出向き、日本語や日本文化を教えました。
ネパールで生活する私を心配して連絡をしてきてくれたり、野菜を家まで届けてくれたり、ネパール人たちに助けられることも多かったです。

ネパール滞在中、SANGAにて

ネパール滞在中、SANGAにて

ネパールには農業と観光しか産業がない上、コロナで観光が壊滅的な状況になりました。
ネパールで何ができるのか、課題やニーズを模索したかったのですが、コロナの影響で当初の計画通りには進められませんでした。
その中で気づいたのが生理事情です。
ネパールの地方部にはナプキンがなく、衛生的に問題がある状態が続いていると知りました。
そこで、環境に与える影響も考え、布ナプキンプロジェクトを始めることに。
女性支援に加え、布ナプキンを産業にすることで、雇用にも繋げたいと思っています。

3ネパールと日本との架け橋を目指して

現在は、2度目のロックダウンを機に、日本に一時帰国中です。
ネパール滞在中にオンラインで出会った日本人とやり取りをし、状況を見ながら会いに行きたいと考えています。
布ナプキン事業を進めるため、日本で取り組んでいる人にも話を聞きに行きたいですね。

ネパールでは、日本に留学に行きたいのに行けない状態が続き、中には入学辞退者も出てきています。
コロナで人生設計が変わってしまった子たちに、できる限りのことをしたいと思っています。
日本にいる間も、オンラインで定期的に繋がり、日本語テキストの勉強を見たり、日本人の私と話せる機会をつくったりしています。

私には知らないことがたくさんあり、思ってもみないところにネパールと日本を繋げられる可能性があるのだと思っています。
「これ、ネパールでできる?」「この調査をネパールでしてくれる?」とぜひ声をかけてほしいと思っています。
ネパール側にも、日本人とビジネスをしたい人が多くいます。
ビジネスマッチング機能があれば産業を起こしていけると思っているので、今後そうした活動にも取り組みたいですね。
コロナの影響で日本留学を諦めざるを得なくなった子とも、将来的にビジネスなどで日本と関われる機会を持てたらいいなと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年8月)のものです

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