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頭を働かせ「できる方法」を探したい。
パラスポーツで得た経験を多くの人に
【パラリンピック銀メダリスト/NPO法人D-SHiPS32代表・上原大祐】

目次
  1. 氷上で抱いた「金メダリストになりたい」
  2. 日本にも障がい児がスポーツを楽しむ情景を
  3. 「できない」を選ぶ方が簡単。諦めずにできる方法を探したい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、パラスポーツの普及活動に取り組む上原大祐さんをご紹介。

生まれつき車椅子ユーザーの上原さんは、19歳でパラアイスホッケーに出会い、オリンピックに3度出場した銀メダリスト。そんな上原さんが今尽力しているのが、パラスポーツの普及活動です。活動を通して伝えたい思いとは。お話を伺いました。

1氷上で抱いた「金メダリストになりたい」

先天的に二分脊椎という障がいを持って生まれ、歩くことができませんでした。
性格はやんちゃで、外遊びが大好き。
新しい遊びを発案するタイプの子どもで、友達からも「大ちゃんは新しい遊びをつくってくれるから楽しい」と言われていました。

母は私が「やりたい」と言うことに対し、「障がいがあるから無理だよ」とは言いませんでした。
小学生の頃、自転車に乗る同級生をうらやんで「乗りたい!」と言ったときも、母は「ちょっと待ってね」と、手でこげる自転車を見つけてきてくれました。
念願が叶えられてうれしかったです。

やんちゃぶりは成長しても変わりませんでした。
中学生になると一緒に登下校していた周りの友達が自転車通学になり、車椅子の私には一緒に登下校できないスピードに。
悔しい思いをしていたら、親友が「俺の自転車に捕まりなよ」と、自転車で車椅子を引っ張ってくれるようになったんです。

車椅子は前輪が石ころ一つに引っかかるだけでひっくり返ってしまいます。
怖さを感じながらも引っ張ってもらっていたのですが、車椅子本体が耐えられなかったようで、何度も車椅子を壊してしまいました。

そんなある日、車椅子会社の社長から「お前ほど車椅子を壊すやつはいない。そのやんちゃぶりはホッケーに向いているから来い」と誘われました。
高校時代に長野でオリンピック・パラリンピックが開かれ、地元・軽井沢にはカーリングの会場があるという接点はあったものの、パラアイスホッケー自体はよく知りませんでした。

大学では建築を専攻。
長野のオリンピック・パラリンピックの影響で近くの駅が新しくなったのですが、その駅が車椅子の私には非常に移動しづらいつくりで、「日本の建築はどうなっているんだ!」と衝撃を受けたのが理由でした。

大学の近くにはスケートリンクがありました。
日本代表の合宿があると聞き、見学に行くと、選手から「氷の上に乗ってみなよ」と声をかけられ、乗ってみることに。
その瞬間、直感で「うわ、これだ」と思いました。
なぜだか上手くなれそうな予感がしたのです。
これまで経験してきたスポーツでは抱いたことのない感情で、「パラアイスホッケーで金メダリストになりたい」と、気持ちが完全にホッケーに向きました。

すぐに長野県のチームに所属し、練習に取り組み始めました。
先輩から「俺が2ヶ月でできるようになったことを、お前は2週間でやれるようになった」と言われるほど、スムーズに練習になじめました。
メキメキと上達していくのが楽しかったです。

あるとき、チームのトレーナーを務める理学療法士の方に「うちの病院に、事故で車椅子生活になってしまい、ずっと落ち込んでいる人がいる。お前みたいに元気な障がい者もいるんだと見せてやってほしい」と頼まれました。
驚きましたね。
パラアイスホッケーを始めるまでずっと健常者の人と過ごしてきたので、他の障がい者とあまり関わったことがなく、悩んだり引きこもったりしてしまう障がい者がいることを初めて知ったのです。

彼らと接することで感じたのは、「障がい者だから悩む、大変」ではなく、「それぞれいろいろな悩みがある」でした。
健常者も悩むことはありますし、精神的に追い詰められると引きこもりたくなるのは、何も障がい者だけではないと思えたのです。
「障がい者だから」ではなく、「その人にとって」の悩みや苦しみがあると思うようになりました。

この気づきをきっかけに、社会福祉学科に転向して心理学を学び始めました。
建築を学んで段差のない社会を実現したいと思っていたのですが、そもそも外に出られなくなっている人は段差の不便さを実感することもできません。
カウンセラーなど、精神的なサポートをする仕事を目指そうと思いました。

2日本にも障がい児がスポーツを楽しむ情景を

21歳のとき、アメリカ・シカゴのチームに所属できることになり、年に5、6回渡米して練習や試合に参加することになりました。
実際に現地でアメリカのパラスポーツの実情を見て、日本の遅れを痛感。
印象に残っているのは、障がいを持った小さな子どもたちが楽しそうにパラアイスホッケーをしている姿です。
「この情景は今の日本にはない。自分がこの絵面を日本につくりたい」という夢ができました。

日米を行き来する生活の合間に、日本では就活を始めました。
病院のメディアソーシャルワーカーになりたかったのですが、新卒募集が出るのは大学4年の2月で、募集が出るかどうかも定かではないと知ったため、東京の外資系ヘルスケアカンパニーで働く道を選択。
大学卒業目前にはトリノパラリンピックに日本代表として出場し、日本人最多ゴールを決めることができました。

試合で活躍する上原さん。スレッジと呼ばれる器具を装着し、氷上を駆ける

試合で活躍する上原さん。スレッジと呼ばれる器具を装着し、氷上を駆ける

社会人になりうれしかったのは、自分の手でお金を稼げるようになったことです。
長野には車椅子で働けるアルバイト先がありませんでした。
友達がアルバイトをしている中で、私は親に小遣いをもらわなければならず、非常に悔しかったのです。

働き始め、自腹でパラアイスホッケー体験会を開始。
シカゴで抱いた「子どもたちがホッケーを楽しむ情景をつくりたい」という夢を、実現させようと動き始めたのです。

活動する中で、「障がい者には貸せない」と練習会場から断られることや、子どもたちの親が「うちの子には無理です」と口にすることを知りました。
我が子を心配しての言葉だと理解していますが、良かれとかけた言葉が子どもの可能性を狭めてしまうと感じました。
親が100%心から「いってらっしゃい」と言えるかどうかは、子どもが育つ上で非常に大きな影響があると思ったのです。

選手活動も続け、2010年にはバンクーバー大会の舞台に立ちました。
結果は日本初の銀メダル。
開催国で強豪のカナダに勝って得た銀メダルでしたが、金メダルしか見据えてこなかったため、悔しさが残る結果でもありました。

バンクーバー後、自分自身がスキルアップしたり、子どもたちにパラアイスホッケーを教える環境づくりを学んだりするため、アメリカ・フィラデルフィアへ。
一年間滞在し、シカゴ時代よりもアメリカと日本の違いを感じることができました。
チームメイトは練習中にケンカしては、練習が終わると「ご飯を食べに行くぞ」とあっけらかんとしていて、しこりを残さず意見を言い合えるのが印象的でしたね。
彼らに感化され、自分も感じたことをできるだけ口に出そうと思うようになりました。

また、平均的にある程度いろいろできる人をそろえて総合力のあるチームをつくる日本とは異なり、アメリカは各人の強みを活かし、トータルで総合力を持つチームをつくることも知りました。
彼らは自分にないスペシャルを互いに理解しあっているスペシャリストであると同時に、アメリカ式の方が面白く強いチームがつくれるのではないかと感じました。

フィラデルフィアのチームメイトと一緒に

フィラデルフィアのチームメイトと一緒に

あるとき、留学中の日本人小児外科医の先生に「大祐のように障がいを持って生まれた子どもたちと親御さんのサポートは難しく、課題になっているんだ。私より一足先に帰国する大祐に、彼らのサポートをするコミュニティをつくってもらえたらうれしい」と言われました。
やりたいことに繋がっていたこともあり、宿題として持ち帰ることにしました。

帰国後、早速障がい児のスポーツ環境の整備に取り掛かることに。
NPO法人D-SHiPS32を設立し、本格的に活動を始めました。
全国各地でパラスポーツの大会や、大学生と「パラ大学祭」を開催して活動を広げていく中で、ゼロイチでつくり上げていくやりがいや楽しさを感じるようになりました。

NPO法人設立からしばらくして、2大会ぶりのパラリンピック、平昌大会への出場が決定。
「もう一度出よう」と思えたのは、NPO活動を通して関わるようになった子どもや親御さんたちに喜んでもらいたかったからです。

また、東京大会が決まり、パラスポーツへの注目度が上がってきたことを受け、「大会で活躍できれば、自分が今後活動していくうえでもプラスなのでは」という考えもありました。
どちらにせよ、初めて自分以外のためにプレーしたいと思った大会でした。

3「できない」を選ぶ方が簡単。諦めずにできる方法を探したい

現在は、NPO活動を始めて6年目。
活動内容はどんどん増えています。
障がい児と彼らの兄弟である「きょうだい児」を対象にしたキャンプ、4人1組でチームを組み、車椅子でゴミ拾いをして競い合う「車椅子スポGOMI」、高額で買い替えが難しいパラスポーツ道具のレンタルサイト「カリスポ」、とろみ食しか食べられない子どもたちと親のコミュニティ「スナック都ろ美」。
パラスポーツ×観光で「電車の中でパラスポーツをしよう」という企画を立てるなど、一風変わった取り組みも行っています。

今の目標は、パラ大学祭とパラスポーツ大会を全国大会ができるまで広めること。
また、一般社団法人障害攻略課の活動も始め、自治体や企業との取り組みも積極的に行っています。
障害攻略課のテーマは「ふべん」を「ふふふ」にすることです。

私は日本やシカゴ、フィラデルフィアなどいろいろな「地」を経験したからこそ成長してきたと思っていて、経験値を「経験地」と表しています。
多くの人にいろいろな「地」を経験してもらえる活動をしたいですし、「障がい者だからできない」とされる環境面の改善にも力を入れていきたい。
世の中の固定観念を引っくり返すのが趣味で、「車椅子にはできない」と言われることを体現するため、今はダブルダッチと呼ばれる2本の縄を使う縄跳びにチャレンジしています。

「挑戦」や「諦めない」で思い出すのは母です。
例え困難に見えても、まず実現方法を探す母に育てられ、アメリカで多くの経験を積んだことが、挑戦心に繋がったのだと思います。
「できない」と諦めるのは簡単。
脳みそを働かせて「どうやったら実現できるか」を追求したいですし、みんなにも諦めずに頭をひねってほしいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年8月)のものです

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