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「やりたい」にブレーキをかけない。
街に自己実現できる舞台をつくる
【流山市役所マーケティング課長・河尻和佳子】

目次
  1. 着る服すら自分で決められなかった
  2. 新しい挑戦のきっかけは、偶然読んだ新聞記事
  3. 「やりたい」を臆せず言い、叶えられる場をつくりたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、千葉県流山市でマーケティング課長として活動する河尻和佳子さんをご紹介。

自分の意志で動くことが苦手だった子ども時代を経て、市民の「やりたい」を叶える場づくりに取り組む河尻さん。何が転機だったのか。お話を伺いました。

1着る服すら自分で決められなかった

私は自分のことを決められない子どもで、着る服も親に聞かなければ選べませんでした。
自分で決めて失敗することが怖くて、誰かの言うことに従う方が安心できたんです。
成長に伴い、徐々に親の言うことに疑問を抱くことも出てきたものの、何かと親の意見を聞いて決め続けてきました。
進路も親の勧めに従って決めました。

大学に入ると、授業選択やサークル、アルバイト先など、一気に自分で決めなければならないことが増えました。
特に私の中で大きな挑戦だったのは、ジャズダンスサークルへの参加でした。
昔からダンスへの憧れはあったものの、運動神経が悪く、自分にはできないと思っていたのですが、勇気を出して飛び込んでみたんです。

「あなたがダンス?」と誰かから眉をひそめられるのではと不安があったのですが、実際には誰からも何も言われることはなく、「やりたいことをやってもいいんだ」と安心できました。
ダンスサークルでは、これまで私が関わってこなかった自由なタイプの人たちと出会えました。
彼女たちの自由さに感化され、私も少しずつ「こんなダンスをやりたい」と自分の意志を口にできるようになっていきました。

また、授業選びでは、友達が受けたがらなかった上級英語クラスを選択。
英語が話せるようになりたい自分の気持ちに従い、一人でもいいと思っての決断だったのですが、そのクラスで同じ目的意識を持つ人たちと出会えて世界が広がったんです。
一人で行動してもいい、周りの目をいちいち気にしなくてもいいんだと思えました。

大学卒業後は、大企業に就職。
「こんな仕事をしたい」といった意志はなく、「大企業なら安心」という親の価値観に影響を受けての選択でした。
父が公務員、母が専業主婦の家庭で、両親は私にもいずれ寿退社をして家庭を築いていくイメージを抱いていたように思います。
私も何となく、いつかは結婚して専業主婦になるんだろうなと思っていました。

働くうちに、自分は恵まれていると感じるようになりました。
大企業で、それも「女性だから」と差別されることなく働けていたからです。
大変な思いをしながら働いている人たちがいる中で、結婚するまでの間、適当に働こうという意識でいるのは不誠実だと、思うようになっていきました。

最初に配属されたのはコールセンターです。
いろいろなタイプのお客さまとコミュニケーションを取る中で、この社会には本当に多種多様な人がいるのだと痛感しました。
相手の背景に想像を巡らせ、どう伝えれば目の前の問題を解決できるのか、試行錯誤を繰り返しました。

その後、法人営業、マーケティング課へと異動。
法人営業では営業力やコミュニケーション力を鍛えられ、マーケティング課ではデータを活用し、仮説を立てたり分析したりする力を身につけました。
数字が苦手だったので「嫌だな、何でこんな部署に配属されたんだろう」と思っていましたが、懸命に取り組むうちに少しずつ仕事ができるようになっていき、数字の面白さも感じられるようになっていきました。

その場その場で求められることに対し、「これを身につけよう」と自分で意味を見出しながら取り組み続けました。
やるべきことに向き合って働いているうちに、知識やスキルが自分の血や肉になっていったと感じます。
そして、成長機会をもらえる仕事はありがたいものだと思うようになっていきました。

2新しい挑戦のきっかけは、偶然読んだ新聞記事

結婚後も仕事を続け、第1子を出産。
仕事では合理的に結果を出すことにこだわり、最短距離を選んできましたが、子育てには合理主義なやり方は通用しませんでした。
大きな挫折感を覚え、人間失格なのではと落ち込むこともありました。

3年後に第2子を出産。
1人目の産休明けは、いかに仕事と家事育児を両立させていくかで頭がいっぱいだったのですが、第2子のときは想像がつく分ゆとりがあり、改めて今後の人生について考えられるようになりました。

しばらくして夫と「上の子が小学校に上がる前にマイホームを買おう」という話になりました。
なかなか理想に合う物件が見つからず難航していたところ、夫から千葉県流山市で探してみないかと提案されました。
流山=古い街というイメージで、あまり気乗りはしませんでした。
しかし、夫から「最近は雰囲気が変わっているらしいよ」と聞き、見に行ってみることにしました。

流山には新しく鉄道が走っていて、私の想像していた光景とは異なる街並みでした。
まだまだこれから変わっていくのだろうという印象があり、流山で家を探すことに決めました。

家探しを続けていたある日、流山市が街を売り込むPR人材を民間から募集しているという新聞記事を読み、興味を抱きました。
そこには、30~40代の子育て世帯に向け、定住先に流山を選んでもらうようPRする新しい役職だと書かれていました。
私はまさに30代の母親。
流山で家を買おうとしているタイミングでこんな募集が出るなんて、巡り合わせを思いました。
流山を見て感じた「いいところがあるのに伝わっていない」という思いを応募用論文に書いて提出してみたところ、予想以上に早く採用通知が送られてきました。

採用通知をもらってすぐ、「市に採用されたので会社を辞めたい」と上司に伝えました。
流山の仕事は5年の任期付きです。
安定した大企業から、5年後にどうなるかわからない不安定な仕事に移りたい私の気持ちを、上司は理解できなかったのでしょう。
「このまま働いていれば、課長にだってなれる」と、もう一度考え直すよう言われてしまいました。

それでも、挑戦してみたい気持ちは揺らぎませんでした。
採用通知が届いたスピードに流山の本気度を感じていたのと、自分が住む街に貢献する仕事ができることに惹かれていたからです。

今までの仕事にもやりがいはありましたが、大企業という大きな組織である以上、私が携われるのは一部分だけ。
「この仕事をするのは自分じゃなくてもいい」という寂しさも感じるようになっていました。
採用してもらった流山のマーケティング課では、企画から実行まで携われます。
前例がなく、自分が命運を握れる仕事に大きな魅力を感じ、大企業では味わえない面白さがあるのではないかと思ったのです。

気持ちは変わらないことを上司に告げ、退職。
3月末に引っ越し、4月から流山市役所で働き始めました。

河尻さんが家を探して初めて流山に来た時の駅前の様子

河尻さんが家を探して初めて流山に来た時の駅前の様子

前例なし、自由に使える予算もなし、ツテもなし。
仕事を指示されないことに戸惑いながらのスタートでした。
改めて流山について調べていくうちに、「他の自治体と比べて流山が勝てる要素って、ある?」という迷いも生まれ、これは想像以上に大変な仕事に飛び込んでしまったかもしれないと思うようになりました。

何かをやらなければと、友達や知り合いから細いツテを辿り、メディアに売り込みをかけ始めました。
行政の人間ということで会っていただくことはできるのですが、メディア掲載のお願いへの反応は芳しくありません。
「言うことはわかりましたが、その情報を書いた記事に価値はありますか?」と言われ、悔しさを感じることも多かったです。

見返してやるぞと思うも結果が出せず、周りから「あの人、外から来て何をしているの?」と思われているのではと焦る気持ちもありました。
プライベートでは引っ越しや子どもの入学など予定がてんこ盛り。
バタバタと過ごしていたため、1年目はあまり記憶に残っていません。

1年目の終わり頃、ようやく自分のPRの仕方が間違っていたことに気づくことができました。
前職で営業経験があったにもかかわらず、とにかく載せてほしいと押し売りのようなことをし続けてしまい、相手目線で話せていなかったのです。

「これなら載せたい」とメディア側に思ってもらえるよう情報を編集して提供し始めたところ、徐々に流山を取り上げてくれるメディアが出てきました。
また、前例がないなら失敗リスクもないのではと思うようになり、恥を捨てて「教えてください」「困っています、助けてください」と周囲に声を上げて動くようになりました。

2年目には、流山のキャッチコピー作成にも着手。
広告代理店に何度もしっくりこないと伝え、作り上げてもらいました。
最終的に、主語を「流山」ではなく市民目線にした「母になるなら、流山市。」というコピーが誕生。
メディアにも取り上げられ、大きな話題を呼びました。

実績が出せるようになり、有頂天になっていた4年目頃、市民の声を知ろうと見ていたSNSで、行政と市民との間に温度差が生まれていることに気づきました。
SNSでは「母になるなら、と言ってるけど、公園の遊具が少ないよね」など、リアルな声を知ることができます。
プロモーション内容と実態をかけ離れさせてはいけない。
市民の方にも受け入れてもらえるプロモーションをしなければと危機感を抱きました。

そこで「母になるなら」の文脈で何か取り組もうと思い、繋がりのあるお母さん2人に声をかけ、企画を立て始めました。
しかし、たった3人なのに微妙なズレがあり、なかなかこれと方向性を決め切れません。
苦戦しながらも、「最初の小さな一歩でもいいからやってみよう」と、母親を対象とした飲み会や、市のイベント会場に「やってみたいこと」を話せる場を設置。
集まってきてくれた女性たちは「私なんかが」と躊躇していたのですが、徐々に「実はこんなことをやってみたい」と口を開き始めました。

私も含め、多くの母親が「母はこうあるべき」と自分の好きなことに無意識にセーブをかけ、自分の夢を語ることすらはばかられると思ってきたのだと知りました
イベントは、その心理的なブレーキを少しだけでも緩めるきっかけになれたのでしょう。
その後、参加者が自発的に2回目、3回目と企画開催し、続いていくように。
「もっと夢を聞きたい、話したい」という女性たちの思いは、1回で終わるものではなかったのです。

イベント内で、やってみたいことについて語る子育て中の女性たち

イベント内で、やってみたいことについて語る子育て中の女性たち

3「やりたい」を臆せず言い、叶えられる場をつくりたい

流山市役所で働き始め、今年で13年目。
今はマーケティング課長として、活動全体のマネジメントにも取り組んでいます。
プロモーション担当として、流山で面白い取り組みをしている人をメディアに紹介するのも私の仕事です。
また、別の課が企画している女性向け創業スクールに来られた方に声をかけ、私たちと一緒にイベントプロデュースをしてもらうことで経験を積んでもらうといった取り組みも行っています。

女性向け創業スクールの卒業生が企画した「親子で楽しむファッションショー」

女性向け創業スクールの卒業生が企画した「親子で楽しむファッションショー」

今は母親だけではなく、流山に住むあらゆる方々に強みやスキルを活かしてこの街でやりたいことをやってほしいと思いながら、場やきっかけづくりに注力しています。
流山を好きになり、末永く住みたいと思ってくれる人が増えたらうれしいです。

私は、子どもの頃自分のやりたいことを言うことができませんでした。
だからこそ、自分の夢を臆せず言える場、力を発揮できる場があってほしいと願っています。
今の私は、人に決められた通りに動くのが嫌なんです。

昔の私には信じてもらえない変化でしょうね。

やりたいことができる場づくりは、私のライフテーマでもあります。
今後、起業したりNPO法人を立ち上げたりとポジションが変化しても、場づくり・きっかけづくりに取り組み続けるのだろうと思います。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年7月)のものです

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