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「ふつう」を押し付けられたくない。
人生を楽しむ人をアート×教育で増やす
【アートワークショップエデュケーター・松本千花】

目次
  1. 「人生は自由だ」を実感した、留学先からの逃走旅
  2. 「自由に思い切りやっていいよ」と言える場をつくりたい
  3. アート×教育で人生を自由に楽しむ人を増やす

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、アート×教育を軸に、フリーランスとして活動中の松本千花さんをご紹介。

ご自身の活動で松本さんは「自由に表現する楽しさ」を伝えたいのだと言います。美術に興味のなかった松本さんが、なぜそう思うに至ったのか。お話を伺いました。

1「人生は自由だ」を実感した、留学先からの逃走旅

叱られたりたしなめられたりするとき、母から口癖のように「普通」という言葉をかけられて育ちました。
「周りを見なさい。普通はそんなことやれへんねんで」「こっちを選ぶのが普通やろ」。
親の言うことを聞いていれば幸せになれると信じ、口では反抗しながらも、しぶしぶ従っていました。

中学も高校も、勉強に励むタイプでした。
周りの大人が「いい大学に行くといい会社に入れる」と考えていたことも影響していたのでしょうが、割と自発的に勉強し、「周りの子より、少しでも上のレベルの学校に受かりたい」と思っていました。

高校時代は、通っていた塾に入ってきた帰国子女の子と親友になり、切磋琢磨して勉強に励む日々を送りました。
彼女は「世界は広くていいよ」と、海外生活の話をしてくれ、私もいつか海外に行ってみたいと憧れを抱きました。

親友に感化され、行きたいと思っていた海外。
しかし、そう簡単に親に賛同してもらえるとは思えませんでした。
大学2年生の秋、大学が用意した交換留学プログラムで半年間フィリピンに行けると知り、「私費留学よりも学校のプログラムでの留学のほうが親は安心できるだろうし、費用も安いから」と親に相談。
しかし両親は猛反対で、父からは外務省の海外安全情報マップを見せられ、「見ろ。フィリピンは真っ赤だぞ。どうやって安全性を証明するんだ」と言われました。
ただ、留学への憧れは募りに募っていて、このときばかりは反対を押し切り強行突破しました。

留学に行くまでは、現地の人との交流や文化に触れられるとワクワクしていましたが、実際は日本の大学に通う代わりに現地の大学で単位を取ってくるという、「言語が日本語から英語に変わっただけ」の留学でした。

きちんと確認できていなかった自分が悪いのですが、イメージと違う留学生活が嫌でたまりませんでした。
「今このまま帰っても、私には何の取り柄もないまま…」と悩みに悩んだ結果、留学先から逃走することにしました。

留学2ヶ月が経ったある日、「家庭の事情で早期帰国させてほしい」と願い出て、単位だけ先に取得させてもらうことに。
家庭の事情は方便です。
単位取得後、帰国せずにフィリピン国内の旅に出ました。

現地で友達をつくり、情報を得ながらいろいろな場所を巡る日々。
日本での決められた生活とは違い、今日食べるご飯、着る服、寝る場所、全てを自分で決めることに、不安や期待を抱えながら生活しました。

学びも多かったです。
あるとき、ガムを噛みながらレジ打ちをしている人を見て「日本だとありえない自由さ!」とカルチャーショック。
日本には、「~してはダメ」「~するべきだ」という暗黙のルールがたくさんあるんだなと肌身で感じました。

またあるときには、ゴミ山でストリートチルドレンを見かけました。
まだ小さな子どもたちがお金になりそうなものを拾っているんです。
空腹だろうし、裸足でゴミ山を歩くのは痛いだろうに、彼らは笑っていた。

こんな状況下でも笑って過ごせる彼らを見て、自分の生活を省みました。
「私たちは贅沢をしすぎているのでは」と思わされましたし、「生きているだけで本当に幸せなことなんだ」とも感じました。
見ようと思いさえすれば、目の前に小さな幸せがもっとあるんじゃないかと感じ、生きる活力をもらいました。

フィリピン旅行中、立ち寄ったゴミ山

フィリピン旅行中、立ち寄ったゴミ山

帰国後、就活に臨むにあたり、どんな会社で働きたいか考えました。
生きているだけで幸せ。あと大切にしたいのは、いかに自分の命を活かせるかだな」と思い、「自分の強みを活かせる会社」が就活のメインの軸に。
業界は何でもいいから、私の行動力を活かして人材配置をしてくれる人事の人と出会いたいと就活をしました。

結果、ご縁があったのは東京のベンチャー企業です。
「強みを可視化するためのシステムを開発し、販売している」と聞き、面白そうだと惹かれました。
ただ、地元で「いい会社」に入ってほしかった母親は大反対。
父親も黙ってはいましたが、怪訝そうでした。

母には「なんで東京?」「なんでベンチャー?」と問い詰められたのですが、当時、言葉足らずで感覚派だった私は「ピンときた!」くらいしか説明ができませんでした。
私は母の説得を諦め、「私のやりたいように生きる!」と半ば勢いで家を出ることになりました。

2「自由に思い切りやっていいよ」と言える場をつくりたい

入社した会社は、名刺の裏にその人の強みを印字するようなユニークな会社でした。

「営業は嫌です」と言って人事枠で採用されたはずが、「まずは現場を知るべきだから」と配属先が営業に。
営業先と仲良くなることはできても、商談を上手く進めることができずに悔し涙を流すことが多かったです。

そんな私に、あるとき上司が「人は底辺にきたときほど、試されどきやぞ」と声をかけてくれました。
ハッとしましたね。
私は失敗したら落ち込んでしまい、「なぜ失敗してしまったんだろう」と後ろ向きな考え方をしがちなタイプ。
「どうやればできたんだろう」という思考になれていませんでした。

上司の言葉を受けて、「底辺で、『なにくそ!』と思いながら乗り越えられたら、もっと成長できるんだ」と捉えられるようになりました。
くじけたり、落ち込んだりしたときにも、「きたきた、この痛み!」「成長痛!」と心の中で叫びながら、前を向いて乗り越えていこうと思えるようになった
んです。

とはいえ、満員電車に揺られて働く生活には疲れを感じていました。
仕事に対しても、「もっとやりがいのある仕事をしたい」と漠然と思うように。
「次に働くなら田舎だなあ」と思うようにもなっていきました。
子どもの頃から、何となく「田舎」への憧れがあったからかもしれません。
私は両親の実家が近かったので、夏休みなどに「田舎に帰るんだ」と友達が話す言葉に、羨ましさがありました。

そんなあるとき、「地域おこし協力隊」というものがあることを知り、「聞くだけ聞きに行ってみよう」と説明会に参加しました。
そこで、都会の若者の地方移住を促進し、地域活性を図る会社の人事の方に出会ったんです。
「ちょうど田舎で仕事があるけど、どう?」と言われ、「行きます!」と内容もほぼ聞かないうちに即答。
翌日には会社に退職願を出すという、ハイスピードな決断をしました。

移り住むことになったのは、高知県四万十町。
川も山も海もあって、人も人懐っこくて、食べ物も美味しく、いるだけで心が満たされる環境でした。

移り住んだ高知県四万十町の風景

移り住んだ高知県四万十町の風景

携わることになった仕事は、塾の立ち上げと運営です。
塾と言っても普通の塾とは違いました。
その塾は町が運営していて、子どもたちが地元を離れて進学するのを防ぐため、その町内の高校に入れば無料で通えるという場所でした。

「無料の塾」とはいえど、勉強自体にやる気を感じない生徒には何の魅力にも映らず、集客から必死。
なんとか来てくれた生徒に対しては、勉強にモチベーションをもってもらうために対話することから始めました。

生徒たちと接するうちに「勉強したくない」「本当にやりたいことは別にあるけどどうせできない」など、次第に本音が出てきました。
勉強は「やりたいことをする」手段でしかありません。
だから、彼らが「本当にやりたいこと」を知るために対話し続けました。
そうして、自分の勉強をする目的が明確に見えた生徒たちは、少しずつではあるものの、「勉強をしなさい」と言われなくても、自然と取り組み始めたのです。

親に決めつけられることが多かった私は、「should」や「must」が大嫌いでした。
だからこそ、「勉強したほうがいい」という勝手な意見を彼らに押し付けたくはなかったんです。
「どうせ無理」「わたしにはできない」「親の言うこと聞かなきゃ」と思いながら、やりたいことを隠して、勉強に嫌々向かう彼らを見ていて『もっと自由にやりたいことを表現していいねんで』と言える場をつくりたい、そんな仕事がしたいと思うようになっていきました。

ある日、広島県の大崎上島という小さな島に住む友人から芸術祭を開催すると聞き、行ってみることに。
その中で行われていた帽子やポーチに絵を描こうというワークショップに参加し、絵を描くことに対する固定観念が崩れました。
学生時代から美術に苦手意識があったのですが、紙ではないものに絵を描く体験から「じゃあ、エアコンは?冷蔵庫にも描ける?学校の水道も、いろいろな色や模様だと楽しいかも!」と思いが広がっていき、これまで関心のなかった「アート」に目が向いたんです。

学校での勉強には決まった正解がありますが、アートにはありません。
「思いっきり自由にやっていいよ」と言うにはふさわしい場所だと思い、アートと教育を掛け合わせることに興味を抱きました。
まずは、週一で趣味程度に開催していたダンス教室の子どもたちに対して、見よう見まねでワークショップを始めてみることに。
町内外で何度か場を設けてみたものの、やりがいを感じられるところまではいかず、どうしたらいいのだろうと試行錯誤を繰り返しました。

ただ人を集めてワークショップをするだけになるのは嫌。
でも「~をしましょう」となると私が目指したい「自由さ」からは離れてしまう。
他の人はどうしているんだろうと思い、「アート 教育」でネット検索をしました。
絵画教室も違うし、アートセラピーもしっくりこない。
そうして行き着いたのが、SNSでたまたま知った「Art Education Research UMUM(ウムウム)」。
自由表現と感性をテーマに、ワークショップなどの場づくりを行っていました。

実際にワークショップに参加すると、ビビッときましたね。
UMUMで体験したのは、なにかをつくることを目的にするのではなく、「絵の具の色の混ざり具合を楽しむ」「ペンの描き心地を楽しむ」「粘土の感触を楽しむ」など、とにかくプロセスを楽しむということ。
五感を使って無我夢中に、自分のやりたいように体を動かした先に、出来上がった作品があることに魅了されました。

「私がやりたいのはこれだ!」と思い、その場でUMUMの代表者に弟子入りを志願。
四万十町の関係者にも話をして、残り1年間活動してから辞めることに。
そして1年が経った2020年春、予定通り東京に再転居し、UMUMに弟子入りしました。

3アート×教育で人生を自由に楽しむ人を増やす

UMUMでは、いろいろな素材や画材を用意して、「ここにあるものを好きに使っていいよ」「自分の作りたいものを作ってみよう」と自由に表現できる場を提供しています。
参加するのは、3歳から小学生くらいまでの子どもたち。
普段、子どもたちは幼稚園・保育園や小学校で「この材料で~を作りましょう」と決められた制作活動をしていることがほとんどです。
はじめは戸惑った様子を見せ、「どうしよう」と親の顔色をうかがう子もいます。

でも画材の感触や描き心地に慣れてくるうちに、のめり込んでいき、エネルギーがわっと発散される瞬間があります。
こんなふうに創作活動に夢中になる子どもたちを見ていると、この活動の価値を感じられます。
私もこういう場をひとりでつくれるようになりたい」と思いながら、場づくりのアシスタントをしながら学んでいるところです。

UMUMで開催しているワークショップの様子

UMUMで開催しているワークショップの様子

ただ、東京に来た翌日に緊急事態宣言が発令され、対面での場づくりが難しい状況になってしまいました。
オンラインでやるにも、各家庭で画材をたくさん用意してもらうのは難しいですし、「自由にやらせてください」というのも自宅の環境を考えると難しい。
感染予防対策を考えながら、「コロナ禍でどう開催していくか」を工夫しながらのスタートでした。

いずれは、また田舎に行きたいですね。
UMUMでの経験を活かして、アートに縛られない場をつくりたいんです。
老若男女が集い、みんなが自分の意思を自由に表現できる場をつくることが、私の夢です。

日本人は「空気を読む」「察する」が得意な国民性があるために、大人になるにつれ、意見を飲み込むシーンが増えると感じています。
美点ではありますが、「飲み込む」ばかりになるのはどうなんだろうという思いもあります。

美術やアートに関わる活動をしている人は、その多くが美大出身者など知見や経験のある方なのですが、私には何もありません。
そんな「何もない私」だからこそ捉えられる視点があるはずと、師匠が教えてくれたことを信じて取り組んでいます。

我慢したり、ルールに従ったりするのが当たり前になっている人たちに、まずは非日常で「意思を自由に表現する」楽しさを伝えたいですね。
非日常での「自由な表現」の繰り返しを経て、日常でも自分の欲求や意思を表明できる瞬間を増やすことに繋がったらいいなと思っています。
そうして、自分の人生を楽しむ人が世の中に増えてほしい。
その夢の実現のためにも、今は経験を積み重ねていきたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年7月)のものです

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