シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

「当たり前」を我慢しない。
がん経験から生まれた挑戦する力
【株式会社猫舌堂代表取締役・柴田敦巨】

目次
  1. 看護師でも理解できていなかった患者の想い
  2. 当事者仲間との出会いにより、想いが行動に
  3. がんになっても、自分らしさを諦めないで

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、株式会社猫舌堂の代表取締役・柴田敦巨さんをご紹介。

看護師としてがん患者と接してきた柴田さんは、あるとき耳下腺がんを患います。そして、当事者にしかわからない経験を社会に活かしたいと起業。柴田さんが活動を通して伝えたい思いとは。お話を伺いました。

1看護師でも理解できていなかった患者の想い

小学生時代は、学校の先生の指示に素直に従うのがあまり好きではなく、「右向け右」と号令を掛けられると別の方向を向きたくなる、天邪鬼な子どもでした。

また、友達からいじめられてもめそめそせず、「今に見ていろ」と思うような勝気な性格でした。
友達や大切な人がつらい目に遭って悲しんだり泣いていたりするのを見るのは嫌で、友達をいじめてきた人に歯向かうことが多かったです。

看護師として働きながら育ててくれた母親の影響で、看護師を志すように。
仕事でのうれしかったエピソードなどを話す姿が輝いて見え、「看護師って素敵な仕事だな」と思うようになりました。

看護師免許取得後は、看護師として働き始めました。
そして結婚し、2度の出産を経験。
組織で働く社会人や子どもを育てる親として、「やるべき」とされていることに従わざるを得ないシーンに出くわすようになりました。

例えば、自分の意思に関係なく、子どもの学校のPTA役員の番がきたら引き受けなければなりません。
役員時代に「これはやめませんか?」と提案したことがあったのですが、反発を受けただけで結局、今までのやり方を変えられずに終わってしまったことがあります。
現状の「べき」に疑問を抱いても、飲み込んでおくほうが良かったのでしょう。
多少の違和感があっても周りからの「やるべき」に応えるのは、社会人として当たり前だと思うようになりました。

看護師時代の柴田さん

看護師時代の柴田さん

看護師としてがん患者を治療する部署で働いて20年目、希少とされる耳下腺・腺様のう胞がんであることが発覚しました。
それまで、がんだと診断された人はショックを受けると思ってきましたが、実際感じたのは「なってしまったものは仕方がない」。
ただ、改めて手術が必要となり、仕事や家庭への影響が気にかかりました。
子どもは当時小学生と高校生。
自分が死んでしまっても生活できるようにしなければと思いました。

耳下腺がんは珍しく、症例を見たことがありませんでした。
今後どう症状が進んでいくのか見当がつかず、ネットで検索。
耳下腺がん経験者のブログに出会ったのですが、そこに書かれている「耳下腺がんに負けない」という言葉や、強気な雰囲気に気圧されてしまい、きちんと読めませんでした。

がんになったとわかったとき、人から哀れまれる弱者の立場になってしまったとも感じました。
同時に、「可愛そうと思われたくない」「自分の経験を強みに変えて生かしたい」と思うようになりました。

子どもたちには嘘をつきたくないため、きちんと説明しました。
動揺している様子はなく、「そうなん?でも元気そうやん」とフラットに受け止めてくれているように見えました。
そんな子どもたちに、外野から「お母さん、がんになって可愛そうだね」と言われないようにしたかった。
ママ友や知人には、自分の中で整理をつけた上で、しかるべきときに自分で言う。
それまでは言わないでおこうと思っていました。

自分ががんになったことで、患者さんとの向き合い方も見直すようになりました。
これまでは「〇〇がんの患者さん」と認識し、無意識のうちに患者さんを病名とセットで考えていました。
実際には、当たり前ですが患者一人ひとりに人生がある。
「医療者とがん患者」ではなく「人と人」として接すべきだと気づいたのです。

「患者さんに何かしなきゃ」と気負わず、人として話に耳を傾けるだけでも十分寄り添いに繋がるのかもしれない。
看護の本質的な部分を実感できたように思えました。

治療のために受けた顔面神経再建術後、顔の左半分が麻痺し、咀嚼が困難になりました。
例えるならば、歯科で受ける麻酔後の感覚が強くずっと続く感じです。
左目は瞬きができず、苦労して咀嚼しながら涙を流す状態に。
食べこぼしてしまうことも多く、家族以外の人と食事をすることができなくなりました。
左目の違和感に気づかれないよう、オレンジ色の眼鏡をかけて、かえって注目を集めてしまう失敗をしたこともあります。
自分なりに現状を改善したいと工夫していたのですが、役に立つ情報が見つからなかったこともあり、思うように状況の改善ができませんでした。

時々仲間と仕事帰りにご飯に行くことが楽しみだった生活は一変。
食べづらさもつらかったですが、食の先にある人や社会との繋がりが失われてしまうことのほうが苦しかった。
「どう思われるか心配」「誰かと食べに行けない」と、悩みの深さを痛感。
この気づきを看護の現場でも活かしたいと思うようになっていきました。

食べる喜びは、人と人、社会との繋がりが大きく影響すると実感しました。

私の場合、治療後は再発してないか定期的に検査を受けながら、日常生活を取り戻していきました。
職場にも復帰し、周りは私が働きやすいように協力してくれました。
ただ、仕事中の会話の中で私のがんの話に触れてしまいそうになると、気まずい雰囲気に。
気遣いをさせてしまっていることが申しわけなかったです。

2当事者仲間との出会いにより、想いが行動に

あるとき、耳下腺がん経験者としてブログを書いていた人のことを思い出し、久しぶりにブログにアクセス。
すると、ジャパンキャンサーフォーラム(がん患者さんやご家族のための日本最大級のフォーラム)に参加予定と書かれていました。
そのイベントは、私が去年行ったもの。
縁を感じ、思い切ってコメント欄に「私も同じ病気で、フォーラムに参加しようと思っています」と投稿。
するとそのブロガーさんと当日お会いできることになりました。

彼と対面し、「同じ病気の人に初めて出会えた」と喜びを分かち合いました。
一緒に食事をし、これまで気を遣わせてしまうことを恐れて話せなかった大変さや苦労、食事の工夫を共有。
今まで自分の中で止めていた感情を出せたことで安心し、涙が出てくるほどうれしかったです
「一人じゃない」と思えたことで、力が湧いてきました。

ジャパンキャンサーフォーラムでの一枚

ジャパンキャンサーフォーラムでの一枚

彼との出会いにより、自分の経験を現場に還元したいという思いが強まりました。
これまでは頭の中で思うだけに留まっていましたが、国立がん研究センターで行われている医療者対象の研修に参加するなど、行動を始めました。

翌年、がんが再発。
仲間たちからの「一人じゃないよ」「一緒に生きよう」といったたくさんのエールのおかげで前向きに治療に臨めました。
ただ、化学放射線治療の副作用は大きく、倦怠感や吐き気、味覚障がいに苦しめられました。
自分が当事者になることで、「倦怠感ってこういうものなのか」「味覚障がいってこんなにつらいものだったのか」と痛感。
これまでの「倦怠感はありますか?」「味覚障がいは出ていますか?」「食べられるものを食べてくださいね」といった言葉を見つめ直しました。
味覚障がいは「食べられるものって、何を食べたらいいの?」という状態。
味がしないから食事が楽しくなく、気持ちも沈みます。

ここでも支えになったのは、同じ経験をしてきた仲間たちからの生の情報です。
彼らの体験談を参考にしながら、ソースなど匂いで楽しめるもの、キュウリなど食感を楽しめるものを取り入れ、少しでも食を楽しめるように工夫していきました。

本当につらいのは食べることに制限が生まれることではなく、食の制限により生まれる社会との断絶。
当事者や支える方たちが、気兼ねなく同じ境遇の人同士で安心して話せる場が必要だと考えるようになりました。
想いは募り、周りの人に「当事者同士で話せる場をつくりたい」と話していると、職場の後輩が「会社の起業チャレンジ制度が新しい事業のアイディアを募集していますよ」と教えてくれ、挑戦してみることにしました。

起業チャレンジ制度に応募するためには、課題に対してビジネスプランを考えなければなりません。
アイディアの1つが、食べることのバリアと感じていたスプーンやフォークをなんとかすること。
そこで、オリジナルのスプーンとフォークを商品化することにしました。

起業をしたいというよりも、私たちが感じている社会課題を当事者側から発信し、解決に向けて一歩でも進めたら、という想いが強かったです。
何度か審査を通過し、実証実験も行った末、株式会社猫舌堂を立ち上げました。

厚みや幅、カーブの小さな違いは、食べることにバリアのある人にとって大きな影響があります。
何気ないことのようですが、ほんのちょっとのことが重要。
ただ、「介護用」では気持ちが上がらない。
外食のときにも持っていけるもの、持ち歩きたいと思えるもの、使っていて楽しくて食べやすい。
そして、自分だけが特別ではなく、みんなが一緒に使えて心地いい。
そんなカトラリーを目指しました。

イメージだけはあったので、作ってくれる製造会社を探し始めました。
スプーンとフォークは、ステンレスで有名な新潟県燕市で作りたかったため、エリアを絞りました。
職人による国産だけではなく、燕が「飲み込む」を意味する「嚥下(えんげ)」に含まれている漢字だったことも燕市にこだわった理由です。
地場産振興センターの方が職人さんを紹介してくれ、想いを伝えると、職人さんは快諾。
1ミリ単位で削りながら、2ヶ月ほどで私たちがほしかったスプーンとフォークを形にしてくれました。

続いて取り組んだのは箸。
当事者にヒアリングをし、竹製の箸にすることにしました。
今度はネットで調べて知った熊本の製造会社に作ってもらえることに。
スプーン、フォーク、箸、全て素早く形にしてもらえて感動しました。
ニーズを理解してもらえたことがうれしかったです。
外に持ち歩けるよう布製のケースも開発しました。

実際に販売中のカトラリー

実際に販売中のカトラリー

3がんになっても、自分らしさを諦めないで

現在は、株式会社猫舌堂の代表として、オリジナル商品やギフトセットの販売、当事者が交流できるコミュニティの運営をしています。

コミュニティは新型コロナウィルスのためにリアルな場での運営が難しく、2020年5月からひとまずオンラインで始めることに。
当事者が安心して参加できるよう、毎回3人という少人数で開催しています。
初めて来られた方の多くが、最初は不安で暗い表情をしています。
そんな参加者の方が笑顔になってくれることが、とてもうれしい。
気持ちを分かち合えた喜びだけではなく、「次はこうやって食べてみます」といった意欲に繋がっているという声もお聞きしています。
さらに、新しいアイディアも生まれています。

オンライン交流会中

オンライン交流会中

今後も当事者が「治療優先なのだから食べづらいのは仕方ない」「命があるだけでも十分なのだから、不便くらい我慢しないと」と諦めず、自分らしく生きられるきっかけがつくれたらと思っています。

猫舌堂の活動を通して、がんになっても新しい価値を見出して、新たなビジネスを生み出せる可能性があることを多くの人に知ってもらいたいです。

そして、どんな状況になっても、自分らしく生きることを諦めない世の中であるといいなと考えています。
「当たり前」と従ってきた価値観にとらわれず、今できることを焦らず慌てず、諦めずに一つひとつこなしていけば、理想の社会の実現に向け、進んでいけるのではないかと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年7月)のものです

この記事は役に立ちましたか?
はい いいえ
ご協力ありがとうございました
Related Stories

関連ストーリー

この記事を読んでいる人は、こんな記事も読んでいます
シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

マイマガジン

旬な情報をお届け!随時、新規ジャンル拡充中!