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「やりたくない」を消して道を選ぶ。
スローでもファストでもないマイライフ
【フィジー語学学校カラーズ校長・永崎裕麻】

目次
  1. やりたいことが何もなかった
  2. ピンチを救ってくれたフィジー人の笑い声
  3. 人生を見つめ直す留学生の伴走者でありたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、フィジー共和国で語学学校の校長を務める永崎裕麻さんをご紹介。

やりたいことが何もなかった永崎さん。現実逃避のためのオーストラリア留学が、国ごとに異なる価値観への興味に繋がったと言います。永崎さんが見つけた自分の生き方とは。お話を伺いました。

1やりたいことが何もなかった

やりたいことが特にない子どもでした。
小学生の頃、親から「やってみれば?」と勧められて野球を始めましたが、好きになれなかったです。
野球から逃げたかったのですが、一度始めたものをどうすればやめられるのかわかりませんでした。
勧めてくれた親に「やめたい」とは言えず、我慢しながら続けていました。

野球と同じように、親に勧められて水泳、塾にも通い始めました。
どちらも前向きにやりたかったのではなく、「水泳や塾がある日は野球に行かなくていいからラッキー」くらいに思っていました。

親から「勉強して、いい大学に入り、いい会社に入りなさい」と言われていましたが、何となく100%同意しきれないモヤモヤがありました。
親は子どもの自分より賢いし、判断を間違うはずもないと思っていたため、その価値観に疑問があったわけではありません。
ただ、目的地が同じであっても、親が言うルートよりも楽なルートがあるのではと思っていました。

将来やりたいことも特にありませんでした。
両親や親戚など、周りの大人がみんな散髪屋だったため、職業で思い浮かぶのは散髪屋。
あとは野球選手かサラリーマンくらいでした。

散髪屋は常にお客さんと話しているのが大変そうなのでなりたくない。
野球選手はデッドボールが痛そうで嫌。
サラリーマンはよく内容がわかっていなかった分、ネガティブなイメージもなかったため、将来の夢を問われたときにはとりあえず「サラリーマン」と答えていました。
やりたいことがないから、無尽蔵にある選択肢から何かを選ぶことが難しい。
それならやりたくないことをしない、という消去法で自分の行動を選択する癖が身についていきました。

高校選びでは「野球部がないところ」を選択。
野球部があれば「なぜ入らないの?」と思われてしまうため、野球を自然にやめられる状況に身を置きたかったのです。
野球部のない高校はあまりなく、候補が一気に2校に。
その中から自分の成績に合った学校を受験しました。

大学選びも消去法で行い、家から近い大学の経営学部に1年浪人して入学しました。
就活が始まってもやりたいことが特になく、社会へ出るワクワクもなかったです。
楽しそうに仕事をしている社会人と出会ったことがないのも理由だったのでしょう。
学生時代で人生は一旦終了し、残りは消化試合に過ぎないと思っていました。

就職活動を始める時期になり、たくさんの資料が家に送られてきました。
中身を見ても、やっぱりワクワクできません。
社会人になる現実から逃避したくて、1年休学することに。
ただ、1年後に再びやってくる就活で休学理由を尋ねられると思ったため、何か語れるエピソードを作らなければと思いました。
そこで思いついたのが、海外留学です。

海外に興味はまったくありませんでした。
ただ、楽して周りが納得する休学理由を得られると思ったのです。
留学エージェントから紹介され、留学先はオーストラリアに決めました。

オーストラリアでは、現地の農場などで作業に当たるファームステイを行いました。
まずは2週間、現地の語学学校に通ったあと、留学生それぞれが別の農場に移ります。
留学生は20代後半から50代まで幅広く、学生の僕が一番若かったのですが、年齢や日本での立場は関係なく、語学学校に入ればみんな同じ立場でした。

1年浪人して1年休学して、社会の一般的なレールから2年遅れたことに対し、どこか不安を抱いていました。
その不安が、さまざまな人生を送っている留学生の存在を知ることで解消されました。
そして、みんなの話を聞きながら「決められた人生のレールから降りても生きていけるんだ」と思うようになりました。

勉強内容も、これまで経験してきた勉強とは違いました。
詰め込み型の受験勉強とは異なる、社会問題を自分で考えて意見を出すものだったのです。
日本では「アパルトヘイト」は漢字で表すと「人種隔離政策」で終わりでしたが、その内容を初めて詳しく知り、知的好奇心をくすぐられました。
「勉強は試験のためだけにするものじゃないんだ」と気づき、学びの喜びを感じました。

ファームで関わったオーストラリア人からは、楽観的な思考を学びました。
日本人のように勤勉にがんばろうという国民性ではなく、「Enjoy」と気楽な感じの人が多かったです。

楽観的に日々を過ごすオーストラリア人たちと触れ合うことで、もっと楽しんでいいんだ、がんばることをさぼってもいいんだと思えるように。
やりたくないことを我慢してやってきたこれまでの自分が解放されていく感覚がありました。

帰国しましたが、その後の就活でも、特にやりたいことが見つけられませんでした。
職業リスト一覧を見ながら、営業系はノルマが大変そうだなとか、接客業は向いてなさそうだなとか、やりたくないことを選択肢から外していくと、IT系が残り、システムエンジニアになりました。

休日に海外旅行をしながらしばらく働きましたが、もっと長い時間を使って世界一周をしたい、と思うようになりました。
そこで入社3年目に退職し、バックパッカーとして世界を見て回ることに。
人生は長いのだから、今住んでいる場所にこだわり続けずに、別の場所でも暮らしてみたいと考えるようになっていました。

そんなある日、たまたま「世界住みやすい街ランキング」を見かけました。
その1位にオーストリアの音楽の都・ウィーンが挙げられていたのですが、音楽に興味がないので魅力を感じませんでした。
そもそも、このランキングは僕にとっての「住みやすい」ではない。
自分で探したほうがいいと思うようになり、移住先探しを兼ねた世界一周の旅にしたのです。

世界一周中、エチオピアでムルシ族との2ショット

世界一周中、エチオピアでムルシ族との2ショット

世界を見て回る中で、「暖かい土地がいいな」「フレンドリーな人が多いところがいいな」と条件が少しずつ定まっていきました。
オーストラリアでの語学学校が楽しかったこと、スペイン語や韓国語、中国語など、旅先で役立つ言語を学びたかったことから、14ヶ国でそれぞれ短期間、語学学校に通いました。

2年間で80ヶ国を巡りましたが、結局移住先としてピンとくる場所には出会えず、帰国。
見つからないまま終わらせたくはなかったのですが、お金も尽きていたため、再び移住先探しの旅に出ることは考えられませんでした。

2ピンチを救ってくれたフィジー人の笑い声

帰国後、働くために人材紹介会社に登録してみようとしたのですが、離職期間が2年あることから登録できず、「あ、普通の道には戻れないんだな」と思いました。

そんなとき、内閣府の国際交流事業の「世界青年の船」を知り、参加することにしました。
この事業は、世界各地の18~30歳の青年たちが船内で共同生活を送りながら、異文化対応力やコミュニケーション力を高めるというもの。
あとから「あの体験がきっかけになりました」という言葉を聞くことがありますが、僕は「何らかのきっかけを掴んでやるぞ」という強い意志を持って乗船しました。

年齢制限ギリギリの29歳だったこと、世界一周を始め各地を見てきた経験があったことから、若い人に何か還元できるのではと思っていました。

これまで長らく自由に過ごしてきたので、久しぶりのフォーマルな環境でどう人と話せばいいのかわからず、自己紹介で恋人にフラれた話をしてしまい、場を凍らせかけました。
その雰囲気を壊してくれたのは、フィジー人の女性でした。
彼女が声を上げて笑ってくれたため、雰囲気が和らぎ、事なきを得ました。

なぜ笑ってくれたのか聞くと、彼女は「面白くなかったけど、不幸なときほど笑えばいい」と答えました。
船には彼女を含め10人のフィジー人がいましたが、みんな彼女のようなハッピーな価値観で、興味を惹かれました。
フィジーは島国のため、陸路中心のバックパッカーの行先には含まれていませんでした。
見たことも行ったこともない国でしたが、こんな価値観の人たちが暮らすところで暮らしてみたいと思うようになりました。

やりたいことを見つけてからの行動は早かったです。
国際交流事業終了後、すぐにフィジーに移住し、語学学校のマネージャーとして働き始めました。

勤勉に働いて、幸せになるためにお金を稼ぐ日本人とは違い、お金がないのに幸せそうに生きているフィジー人。
なぜ幸せそうのかを考えながら彼らと関わるようになり、彼らはお金より人との繋がりを大切にしていることがわかりました。
幸せを目指して動くのではなく、ありふれた日常の中に幸せを見出し、繋がる人たちを幸せにし続けているから、お金がなくても幸せそうなのです。

フィジー人の価値観を日本の人たちにも知ってもらいたいと思い、フィジー人たちを見て感じたことを日本に向けて発信するように。
フィジーと日本を行き来する中で結婚し、親にもなりました。
「1~2年暮らせばフィジー人の考え方が自分にも浸透するだろう」と思って始めた移住生活はどんどん伸び、気づけば10年以上が経過していました。

3人生を見つめ直す留学生の伴走者でありたい

現在は、フィジーの語学学校カラーズの校長を務めています。
語学学校で知った学びの喜びを、留学生たちにも感じてほしいと思って活動しています。

学校のコンセプトは「ライフスタイルをアップデートする英語学校」。
英語を学びたいだけなら、必ずしも留学する必要はなく、今ならオンラインでも学べます。
ただ、新しい価値観は、現地でしか得難いものです。
幸せになるためにはお金が必要で、お金を得るためには我慢しながらでも勤勉に働かなければならない。
そういった考えを持つ日本人にとって、フィジー人の「お金がなくても幸せだよ」という価値観を知ることは、思考の転換に繋がるでしょう。

カラーズ留学生たちと孤児院で運動会を実施

カラーズ留学生たちと孤児院で運動会を実施

最近では留学生以外の日本人にも発信できる機会が増えています。
日本人は、本来曖昧さを許す文化があるのではと思っています。
「幸せですか?」という問いに対し、「わからない」と答える人がいるのは日本人くらいなのだそうです。

曖昧なままにすることは、短所でもありますが長所でもある。
しかし、近頃は「誰が悪い」と決めて攻撃しないと気が済まなかったり、弱者を故意に叩いたりするような風潮がネット上で見られ、しんどさを感じています。
最近では『まんが南の島フィジーの脱力幸福論』の出版を控えており、本やネットを活かしてフィジーのゆるさを発信し、「そんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃない?」と伝えたいです。

日本人は「何でお金がないのに幸せなの?」とフィジー人を不思議がり、フィジー人は「何でお金がないと不幸なの?」と日本人を不思議がる。
この両者の橋渡しが、僕の仕事です。

フィジーに移住していると話すと、「いいですね、スローライフですか」と言われることがあります。
ただ、自分ではスローになったとは思っていません。
スローでもファストでもない、自分にとって居心地のいいスピードで生きることが大切。
そんな生き方を追求したいと思っています。
時にスローに、時にファストに、そのときの自分の心に素直に生きていきたいです。

フィジーに移住している日本人はほとんどいません。
人と違う選択をするからこそ、広がる可能性もある。
そういったことを留学生に伝えながら、伴走していきたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年7月)のものです

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