1やりたいことが何もなかった
やりたいことが特にない子どもでした。
小学生の頃、親から「やってみれば?」と勧められて野球を始めましたが、好きになれなかったです。
野球から逃げたかったのですが、一度始めたものをどうすればやめられるのかわかりませんでした。
勧めてくれた親に「やめたい」とは言えず、我慢しながら続けていました。
野球と同じように、親に勧められて水泳、塾にも通い始めました。
どちらも前向きにやりたかったのではなく、「水泳や塾がある日は野球に行かなくていいからラッキー」くらいに思っていました。
親から「勉強して、いい大学に入り、いい会社に入りなさい」と言われていましたが、何となく100%同意しきれないモヤモヤがありました。
親は子どもの自分より賢いし、判断を間違うはずもないと思っていたため、その価値観に疑問があったわけではありません。
ただ、目的地が同じであっても、親が言うルートよりも楽なルートがあるのではと思っていました。
将来やりたいことも特にありませんでした。
両親や親戚など、周りの大人がみんな散髪屋だったため、職業で思い浮かぶのは散髪屋。
あとは野球選手かサラリーマンくらいでした。
散髪屋は常にお客さんと話しているのが大変そうなのでなりたくない。
野球選手はデッドボールが痛そうで嫌。
サラリーマンはよく内容がわかっていなかった分、ネガティブなイメージもなかったため、将来の夢を問われたときにはとりあえず「サラリーマン」と答えていました。
やりたいことがないから、無尽蔵にある選択肢から何かを選ぶことが難しい。
それならやりたくないことをしない、という消去法で自分の行動を選択する癖が身についていきました。
高校選びでは「野球部がないところ」を選択。
野球部があれば「なぜ入らないの?」と思われてしまうため、野球を自然にやめられる状況に身を置きたかったのです。
野球部のない高校はあまりなく、候補が一気に2校に。
その中から自分の成績に合った学校を受験しました。
大学選びも消去法で行い、家から近い大学の経営学部に1年浪人して入学しました。
就活が始まってもやりたいことが特になく、社会へ出るワクワクもなかったです。
楽しそうに仕事をしている社会人と出会ったことがないのも理由だったのでしょう。
学生時代で人生は一旦終了し、残りは消化試合に過ぎないと思っていました。
就職活動を始める時期になり、たくさんの資料が家に送られてきました。
中身を見ても、やっぱりワクワクできません。
社会人になる現実から逃避したくて、1年休学することに。
ただ、1年後に再びやってくる就活で休学理由を尋ねられると思ったため、何か語れるエピソードを作らなければと思いました。
そこで思いついたのが、海外留学です。
海外に興味はまったくありませんでした。
ただ、楽して周りが納得する休学理由を得られると思ったのです。
留学エージェントから紹介され、留学先はオーストラリアに決めました。
オーストラリアでは、現地の農場などで作業に当たるファームステイを行いました。
まずは2週間、現地の語学学校に通ったあと、留学生それぞれが別の農場に移ります。
留学生は20代後半から50代まで幅広く、学生の僕が一番若かったのですが、年齢や日本での立場は関係なく、語学学校に入ればみんな同じ立場でした。
1年浪人して1年休学して、社会の一般的なレールから2年遅れたことに対し、どこか不安を抱いていました。
その不安が、さまざまな人生を送っている留学生の存在を知ることで解消されました。
そして、みんなの話を聞きながら「決められた人生のレールから降りても生きていけるんだ」と思うようになりました。
勉強内容も、これまで経験してきた勉強とは違いました。
詰め込み型の受験勉強とは異なる、社会問題を自分で考えて意見を出すものだったのです。
日本では「アパルトヘイト」は漢字で表すと「人種隔離政策」で終わりでしたが、その内容を初めて詳しく知り、知的好奇心をくすぐられました。
「勉強は試験のためだけにするものじゃないんだ」と気づき、学びの喜びを感じました。
ファームで関わったオーストラリア人からは、楽観的な思考を学びました。
日本人のように勤勉にがんばろうという国民性ではなく、「Enjoy」と気楽な感じの人が多かったです。
楽観的に日々を過ごすオーストラリア人たちと触れ合うことで、もっと楽しんでいいんだ、がんばることをさぼってもいいんだと思えるように。
やりたくないことを我慢してやってきたこれまでの自分が解放されていく感覚がありました。
帰国しましたが、その後の就活でも、特にやりたいことが見つけられませんでした。
職業リスト一覧を見ながら、営業系はノルマが大変そうだなとか、接客業は向いてなさそうだなとか、やりたくないことを選択肢から外していくと、IT系が残り、システムエンジニアになりました。
休日に海外旅行をしながらしばらく働きましたが、もっと長い時間を使って世界一周をしたい、と思うようになりました。
そこで入社3年目に退職し、バックパッカーとして世界を見て回ることに。
人生は長いのだから、今住んでいる場所にこだわり続けずに、別の場所でも暮らしてみたいと考えるようになっていました。
そんなある日、たまたま「世界住みやすい街ランキング」を見かけました。
その1位にオーストリアの音楽の都・ウィーンが挙げられていたのですが、音楽に興味がないので魅力を感じませんでした。
そもそも、このランキングは僕にとっての「住みやすい」ではない。
自分で探したほうがいいと思うようになり、移住先探しを兼ねた世界一周の旅にしたのです。
世界を見て回る中で、「暖かい土地がいいな」「フレンドリーな人が多いところがいいな」と条件が少しずつ定まっていきました。
オーストラリアでの語学学校が楽しかったこと、スペイン語や韓国語、中国語など、旅先で役立つ言語を学びたかったことから、14ヶ国でそれぞれ短期間、語学学校に通いました。
2年間で80ヶ国を巡りましたが、結局移住先としてピンとくる場所には出会えず、帰国。
見つからないまま終わらせたくはなかったのですが、お金も尽きていたため、再び移住先探しの旅に出ることは考えられませんでした。