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一冊の本が生き方のヒントをくれた。
仕事も住む場所も自分でデザインできる
【プロジェクトデザイナー・津田賀央】

目次
  1. マイノリティだった過去が生み出した、自分を信じて突き進む力
  2. 二拠点生活で感じた、当たり前に囚われない働き方
  3. 森のオフィスから新たな価値の創出を

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、長野県富士見町でコワーキングスペース運営と企業のプロジェクト企画や立ち上げ支援を行う津田賀央さんをご紹介。

30代半ばで今後の会社員キャリアに光が見えなくなってしまった津田さん。本や長野県の田舎町で出会った人たちとの出会いをきっかけに、居住地や雇用形態に囚われない働き方を実現していきました。どのような心境の変化があったのか、お話を伺いました。

1マイノリティだった過去が生み出した、自分を信じて突き進む力

小学校3年生から7年間、アメリカのシアトル州に住んでいました。
それまで海外にはまったく縁がなく英語も喋れない状態で、突然慣れない土地や学校へ放り出され恐怖と不安が大きかったです。

学校には日本やアジア出身の子が少なく、初めてマイノリティに属することになりました。
人種差別を受けることもしばしば。
例えば小学生の頃、休み時間に友達と一緒にアメフトをやっていたところ、白人の子から「お前はアメリカ人じゃないんだからアメフトはできないよ」と冗談半分に言われたことがありました。
悲しさと同時に、自分は他の子たちと違う存在なんだと自覚させられた瞬間でしたね。

高校生になり日本へ帰国してからも、常に「帰国子女」という肩書きがつきまといました。
同じ日本人なのに、海外に数年間住んでいたというだけで特別扱いされてしまい、日本でもマイノリティという立場が続きました。

傷つくことも当然ありました。
でも、アメリカでマイノリティに属している期間が長かったので、“他人と同じじゃないこと”には慣れていました。
だんだんと「周りがどんな評価をしようとも、自分のやりたいことや行きたい方向へ突き進もう」という価値観が確立されていきましたね。

大学は、環境科学やメディアアートを学ぶため環境情報学部へ。
航空機の設計をしていた父の影響やアメリカ時代にマイクロソフトの本社が近くにあったことで、幼い頃から最先端のテクノロジーにとても興味があったんです。

あるとき、デジタルコンテンツというものがあることを知りました。
インターネット上で見られるようデジタル化された本や映画、音楽、アニメーションなど。
インターネットが急速に普及し始めた頃だったので、デジタルコンテンツの将来性と新規開拓していく面白さに惹かれ没頭するようになりました。
そして大学3年生の頃に、たまたま広告代理店から新卒でデジタル領域に強い人材の求人が出ているのを発見し、迷わず手を挙げました。

無事に広告代理店への就職が決まり、新設された部署でデジタルプランナーとして仕事を任されることに。
インターネット上で広告を出すときのマーケティングから運用まで一通り携わりました。
将来性のある世界に身をおきながら、仕事や人間関係など新しい道を切り開いていけることに、面白さとやりがいを感じていました。

しかし入社から10年ほど経った頃、東日本大震災が発生。
経済が大きな打撃を受けたことで、ふと「こんなに日本中が悲しみと疲労感に包まれているのに、自分たちのやっていることは何か社会の役に立っているのだろうか」という疑問が湧いてきたんです。

そして自分の中でその疑問がどんどんと膨れ上がり、最終的にはネガティブな感情に変わってしまいました。
広告代理店のような仲介役ではなく、クライアント側に入りもっと長期的に社会へ影響を与えられるようなモノやサービスをつくりたいと思い転職を決意しました。

友人からの誘いもあり、転職先はAV機器や通信事業などを手掛ける大手家電メーカーに決め、クラウドサービスの研究開発を担当。
クラウドの仕組みづくりや企画などを海外拠点と連携をとりながら進めていました。
転職前に比べて、より規模が大きくグローバルな仕事に携われるようになったので、社会へ与えるインパクトの大きさを実感しながら取り組むことができていましたね。

しかし一方で、大企業ゆえに承認の多さや会社の事情などが原因で、プロジェクトに遅れが出たり突然白紙に戻ったりすることがあったんです。
しょうがないことだと理解しつつも、自分の頭に次々と浮かんでくるアイディアや企画が思うように遂行できないことに、もどかしさを感じていました。
もっとテンポよく、同時多発的にいろいろなプロジェクトに関わりたい想いが募っていきましたね。

ちょうど年齢も30代半ばでキャリアの中盤に差し掛かっていたこともあって、「このままの環境で同じ働き方をしていても、自分自身の能力は上がっていかないのではないか」という不安がよぎったんです。

2二拠点生活で感じた、当たり前に囚われない働き方

モヤモヤした日々が続いたあるとき、『ワーク・シフト 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>』という本に出会いました。
2025年の働き方が予測されたもので、自分自身が40代半ばになる頃の内容でした。

本のなかでは、2025年以降は世界的な大企業を除いたほとんどの企業が形をなくし、その代わりに世界中のフリーランスたちが遠隔技術を使いながらさまざまなプロジェクトを組んでいく、新しい働き方が描かれていました。

それまで会社員として働くことが当たり前だと思っていたので、この本の内容には衝撃を受けました。
それと同時に、「求めていたものはこれだ、今すぐにでもこういう働き方をしたい」と心が踊ったんです。
悶々としていた気持ちに光がさした瞬間でしたね。

ただ周りには会社員が多くフリーランスや副業をしている人がいなくて、なかなか情報が得られず。
そんな時、雑誌で特集されていた長野県特集が目に留まりました。
都会からの移住者に人気のエリアが多いと紹介されていたんです。

こんな場所があるんだと興味を持ち、すぐに家族で長野県へ見にいきました。
いくつかの地域をまわるなかで、特に気になったのが富士見町。
落ち着いた雰囲気で、自分の思い描く生活を実践している人たちもいて、価値観の似た人が多いことが魅力でした。
こんな環境で新しい働き方ができたら最高だなと気持ちが高まりました。

帰宅後、富士見町のウェブサイトを見ていたら、画面の片隅にある「富士見町テレワークタウンホームオフィス計画」という小さな資料が目に留まったんです。
町の人口減少を食い止めるために、移住者の誘致をするというもの。
富士見町長自ら考案した肝入りのプロジェクトのようでしたが、まだあまり進んでいない様子でしたね。
これではもったいないと思い、すぐに企画書をつくり「私に計画書をつくり直させてください」と担当者へ連絡してみたんです。

すると富士見町役場の担当者から返信があり、2週間後には町長へ直接プレゼンすることになりました。
そこからは驚くほどとんとん拍子に話が進んでいき、プロジェクトへ携わらせてもらえることに。

初めて町長とお会いしたその日に「やるからには富士見町へ住んでもらわないとね」といきなり言われました。
この一言で、これまで迷っていた気持ちが嘘のように消え、一気に富士見町への移住に向けた準備が進んでいきました。

ただ、今の仕事も好きだったので、富士見町に住みながらどうにか働き続ける方法はないかと上司に相談してみたんです。
当然、前例のない働き方だったため最初は戸惑っていたものの、熱意を受け止めて最善の方法を一緒に考えてくれました。
結果、週3日だけ東京の職場へ出社するという働き方にしてもらうことになりました。

そこからは、富士見町と東京の二拠点を行き来しながら働くことになりました。
体力的にも精神的にもきつい時期はありましたね。
ただ、不思議なことに心は満たされていました。
きっと自分のやりたいことを心地よいスピード感でこなせて、自分の能力の幅も広がっている実感を持てているからだろうなと感じていました。

富士見町にて津田さんが撮影した朝日

富士見町にて津田さんが撮影した朝日

こうした生活を続けていくうちに、これは限られた人だけでなく、どんな人にでも実現可能な働き方なのではないかと思うように。
同時に、もっと多くの人にこうした働き方や生き方を知ってもらい、実際に行動へ移す人も増えてほしいと願うようになっていきました。

富士見町では、役場の人たちと協力してコワーキングスペース「富士見 森のオフィス」の運営を行っていました。
最初は作業するだけの場になっていましたが、徐々に馴染みの人たちが増え、いつしか利用者同士で新しい事業を立ち上げるまでになっていました。
それも一つだけでなく、140以上の事業が誕生していたんです。

他にも、東京や地元企業から「こういうことをできる人はいますか?」と問い合わせをもらい、利用者のなかから適任者を紹介したりすることもありましたね。

こうしたコワーキングスペースのなかで起こる人と人との出会いや新しい事業の誕生、雇用の創出を目の当たりにするうちに、コワーキングスペースには大きな可能性が秘められていると感じるようになっていきました。
そこからは移住者の受け入れ口としてだけでなく、「機会づくりの場」と「新しい働き方を示唆する場」、そして「個々が繋がり仕事を作っていく場」としても活用したいと思うようになりましたね。

3森のオフィスから新たな価値の創出を

現在は大手家電メーカーを辞めて、長野県富士見町でコワーキングスペース「富士見 森のオフィス」の運営と商品開発や企画デザインを請け負うRoute Design合同会社の代表社員をしています。

森のオフィスはただ作業をするだけの場にとどまらず、さまざまな機会をつくり出す場として位置付けています。
たとえば利用者同士や利用者と企業をマッチングさせ、新たなプロジェクトの企画から運用支援までお手伝いすることも。

実際すでに、140以上のプロジェクトが誕生しています。
このように、森のオフィスを通して富士見町へのリモートワーカー誘致だけでなく、地域の雇用創出や創業支援も目指して取り組んでいます。

森のオフィス内で利用者同士が交流している様子

森のオフィス内で利用者同士が交流している様子

また最近は、地球環境へ配慮した運営や企画を行っています。
例えば、森のオフィスで使う備品はプラスチック製品をNGに。
ペットボトルの代わりに、地元の酒屋さんから瓶製品を買って返却するという方法もとっています。
また、他の備品もこれまではインターネット通販などで注文していましたが、できる限り地元のものを利用し地産地消も心がけています。

私たちは暮らしているだけで地球環境に害を与えてしまっていて、今後近い将来住む場所が減ってしまう可能性も高いと言われています。
都会に比べてより自然を身近に感じる場所にいるからこそ、危機感が強くありますね。
多種多様な人が集まるコワーキングスペースだからこそ、これからの働き方や生き方を啓蒙する場として、少しでも環境を改善できるようなプロジェクトを立ち上げていくことが使命だと思って活動しています。

30代半ばで会社員という肩書きを手放し、今の働き方を選びました。
当時はまだ副業やパラレルキャリア、二拠点生活という言葉自体が浸透しておらず少し不安もありましたが、新しい環境に一歩踏みこんだことで価値観が変わり、人生がより面白さを増したと実感しています。

地方へ行き、その土地の文化や人と触れ合うだけでも、都心では気づかなかったものに出会えるはず。
だからもっと多くの人がいつもとは違う環境へ気軽に訪れ、働き方や生き方のヒントを得ながら、人生をより豊かにしていってほしいと願っています。
森のオフィスも、たくさんの人にいろいろな気づきを与えられる場にしていきたいですね。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年5月)のものです

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