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食事もままならない現状を変える。
宅配支援で付き添い親の心身を支えたい
【NPO法人キープ・ママ・スマイリング理事長・光原ゆき】

目次
  1. 食生活を振り返るきっかけになった、がん経験
  2. 温かいごはんが何よりもの救いだった
  3. 付き添い環境のケアが不要になる日まで活動を続けたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、入院中の子どもに付き添う親に食事や日用品の支援を行うNPO法人キープ・ママ・スマイリング理事長の光原ゆきさんをご紹介。

2人の子どもが産後すぐに入院し、6ヶ所の病院で付き添う生活を経験した光原さんは、付き添う親の体調管理の大切さ、環境整備の必要性を実感し、サポートをしたいとNPO法人を立ち上げました。光原さんが活動にかける思いとは。お話を伺いました。

1食生活を振り返るきっかけになった、がん経験

私は新卒で大手人材会社に入社し、頻繁に終電を逃す仕事一筋の生活を送っていました。
私にとっては楽しい日々で、文化祭のようなノリでわいわい働いていましたね。

そんな仕事漬けの生活を送っていた29歳のとき、何の前触れもなく突然倒れました。
入院し、ついた診断名は「卵巣がん」。
片方の卵巣を取ることになり、3ヶ月ほど休職せざるを得なくなりました。
「30歳そこそこで最後を迎える可能性があるのか」と思い、命は有限であることを実感しましたね。

死を意識したことで自分の生活を振り返った結果、「食生活だけはなんとかしなくちゃいけないな」と思うようになりました。
がんになるまでの私は、夜中に家に帰ってカップ麺やドーナツを晩ごはんにするなど、ろくな食生活を送っていなかったんです。

深夜まで仕事をしているスタイルもなんとかしようと、復帰直後は20時頃には退社しようと心がけていたのですが、やっぱり仕事が楽しくて、徐々にもとの仕事スタイルに戻っていってしまいました。
ただ、たとえ3時まで働いた日でも、インスタント食品で食事を済ますことはなくなりました。
後輩や部下にも「食べたものが体を作るんだからね」と食事を大切にするよう伝えていましたね。

入社9年目の春、上司から新規事業開発室への異動を告げられました。
医療領域で新たにウェブメディアを作ることになり、担当を務めるよう言われたんです。
メディア作りに携わるのは私だけ。
どこからどう手を付ければいいのかまったく見通しが立たないのに「年内にオープンしてください」と言われ、途方に暮れましたね。

会社には「あなたはどうしたい?」と問う文化があり、入社直後から問われ続ける日々を送ってきましたが、責任者が別にいたため、私が先導する必要はありませんでした。
初めて「私が動かないと何も始まらない」状況に立たされ、責任の重さに恐怖を覚えましたね。

ただ、医療という分野自体には非常に興味を抱いていました。
私自身ががんサバイバーですし、がんになった同年に弟を亡くしている背景もあります。
自分自身がもっと知識を得たい領域で、そんな私だからこそ作れるメディアがあるのではと思うと、ワクワク感もありました。

とにかく、動かなければ始まらない。
まずは、メディアのコンセプトとペルソナを考え始めました。
コンセプトは「どういったメディアにするのか」、ペルソナは「記事を読むターゲット」を指します。
この土台さえ決められれば、あとは土台に沿って記事を作成していくだけとも言える、大切な部分です。
一人で考えるのには限界があり、周囲に力を借りつつ進めていきました。

デザイン会社やシステム会社も加わり、日に日にチームは拡大。
チームの一員だった私がチームを作る側に立ち、リーダーはみんなが目指す山頂を決めて伝える役目なのだと理解していきました。
難しさと責任に苦しみ、しばらくは寝ても覚めてもうなっていましたね。

がんは定期的に健診を受けていて、1つの区切りである5年が経った頃、主治医の女医に「1つ残された卵巣は、毎月がんばって卵子を出しているんですよ。あなた、子どもは考えないの?」とストレートに尋ねられました。

それまで妊娠出産を自分事として考えたことはありませんでした。
先生に尋ねられたときも、「いや、私はいいです」と答えたんです。
ただ、同時期にメディアの市場調査として行ったインタビューで不妊治療経験者に話を聞く機会があり、子どもは努力で授かれるものではないこと、誰もコントロールができない領域のものだと知り、妊娠や出産に少し意識が向いてきました。

そこで、子どもを産んだ知人友人に話を聞いてみると、みんな「子どもを産んで良かった」と言うんです。
「なんとかなるし、なんとかするんだよ」という言葉に、もし自分に縁があれば出産してもいいのかもと心が傾いていきました。
卵巣が1つ残ったのも、何かの縁だろうと思った
んです。

出産に前向きになったあと、妊娠。
つわりも特になく順調でした。
しかし、出産を迎えたその日、子どもはすぐに別の病院のNICU(新生児集中治療室)に運ばれることになりました。

出産直後の私の元に先生が入れ代わり立ち代わりやってきては、「このままだと赤ちゃんは死んでしまう」「手術をしなければ助からない」「手術をしても100%助かるわけじゃない」と怖い話ばかりするんです。
「お子さんは何万人に一人の病気です」と言われ、なぜうちなのか、私が何か悪いことをしたのかと自責の念に駆られ、泣いてばかりいました。
「お母さんのせいではありません」とも言われましたが、自分ではそう思えなかったです。

ようやく子どもにミルクをあげられたのは生後11日目。
他の新米ママと同様に、朝から晩まで子どもの世話のことで頭がいっぱいで、さらに子どもの命の危険への不安も加わり、自分のことに気を回す余裕は一切ありませんでした。

病院での付き添い生活3ヶ月目、無理がたたったのか、私が発熱。
自宅に戻らなければならなくなりました。
家で休んでいる間は夫が面会に行き、毎日子どもの写真を撮ってきてくれたのですが、だんだん子どもの目から力がなくなっていくように感じ、早く戻らなければと焦りを感じていました。

自分で話せない子どもの様子をつぶさに見て、医師や看護師につなぐのは私の役割であり、私も医療チームの一員として健康維持をしなければならないんだと思うようになっていきました。

また、親が倒れずに看病し続けるのは大変だとも実感しました。
子育てに少し慣れてきたり、子どもに付き添う母親の知り合いが増えたり、治療内容に応じて別の病院を経験したりすることで、付き添い環境の課題が見えてきましたね。

食事も課題の1つで、看病の合間に院内のコンビニに走っては、おでんの大根や卵、野菜ジュースで少しでも野菜の栄養を摂取しようとしていました。
そうして付き添い続けて半年、ようやく退院。
自宅で子どもと過ごせる生活がやってきました。

生後まもないお子さんにミルクをあげる様子

生後まもないお子さんにミルクをあげる様子

2温かいごはんが何よりもの救いだった

一人目の子が3歳になり、ようやく健康な子どもと同じように過ごせるまでに落ち着いた段階で、「きょうだいを」と考え2人目を妊娠しました。

一人目の病気に加え、39歳での出産だったことから、NICUのある大学病院を選びました。
妊婦健診も毎回念入りにしてもらっていたところ、妊娠5、6ヶ月頃に赤ちゃんが難病を抱えていることがわかりました。
「私は生まれたての赤ちゃんをおくるみに包んで抱いて退院したいだけなのに、そうした当たり前のことが1回も体験できないのか」と思いましたね。

2人目出産後、再び付き添い生活がスタート。
治療内容に応じて転院し、あるとき手術のために京都の病院に移ることになりました。
子どもが集中治療室にいる間、親の私にできることはありません。
温かいごはんが食べたいと外に出てみたところ、おばんざい屋さんが目に入り、立ち寄ってみたんです。
温かいごはん、本当に美味しかった。
また食べたいと3食続けて通っていると、「引っ越してきたの?」と店の大将から声をかけられ、子どもの看病で病院に付き添っていることを話しました。

大将は、「うちは弁当も作っているから、電話をくれれば病棟まで届けてあげるよ」と言ってくれました。
非常にうれしくて、病院にいるママ友の分も取りまとめて注文。
どんな励ましの言葉よりも、温かく美味しいごはんがくれるパワーはすごいんだと実感しました。

言葉は、どう配慮しても意図せず傷つけてしまうことがありますし、支えになろうと思っていても適切な言葉を見つけられないこともあります。
大げさかもしれませんが、温かいごはんは正義だと思った
んです。

2人目の子どもは、生後11ヶ月目に容体が急変、亡くなってしまいました。
この子と一緒に燃やしてほしいとすら思い、生きている意味がわからなくなりました。
この先、どうやって生きていけばいいのかわからないとどん底にいた私の支えになったのは、毎日ごはんを作りに家に来てくれた近所のママ友です。
どんな励ましの言葉より、美味しいごはんに救われましたね。

日々を過ごしながら、2人目の子が生まれてきてくれた意味を考えるようになりました。
誰でも何かの目的をもって生まれてくるのかもしれない。
あの子は11ヵ月で空に帰ったけれど、私に何か伝えるべきことを残していってくれたのかもしれない。
だとしたら、あの子から受け取ったメッセージを形にして、誰かの役に立つことが私の役目なのかもしれないと思うようになりました。

やるべきことを考えたとき、思い浮かんだのは病院で付き添う親の環境です。
2人の子の看病を通じ、6つの病院での付き添いを経験しましたが、どこも親が過ごすには生活サポートが不十分でした。
具体的な案はありませんでしたが、「なんとか付き添い者の環境を良くしたい」と2014年11月にNPO団体キープ・ママ・スマイリングを設立しました。

NPO設立当初の活動の様子。お食事提供のための準備を行っている

NPO設立当初の活動の様子。お食事提供のための準備を行っている

何かできることはないかと模索するなかで、おばんざい屋さんや家にごはんを作りに来てくれたママ友に助けられたときのうれしさを思い出しました。
食事の手助けなら活動を始めてまもないNPOでもできると思い、都内のファミリーハウスを拠点に、料理が得意な仲間たちと付き添い中の親に食事を届けるサービスを始めることに。

仕事も続けながら月に1~3度ペースで活動をしていたのですが、現状に満足できなくなり、もっと多くのお母さんたちを助けたいと思うようになりました。
そして、活動開始後4年ほど経ったころ、NPO活動一本に絞ることにしました。

改めて「人はいつ死ぬかわからない」と痛感し、やりたいことをやらないと後悔すると思ったのも、NPO活動に絞る決断を後押ししましたね。

3付き添い環境のケアが不要になる日まで活動を続けたい

新型コロナウイルス感染症流行以前は、食支援を中心にNPO活動を展開してきましたが、2020年10月からは食に加え、付き添い生活を支援することにも活動を広げています。
小児病棟で病気の子どもを看病する親はコロナの影響をもろに受けて付き添い環境がさらに厳しくなっていたからです。
私たちが2020年4月に緊急調査した時点では、感染拡大を防止するため小児病棟から出られないなど行動を制限されて日用品の買い出しもままならないといったことも起こっていました。

そこでオリジナルトートバッグに、付き添い生活に必要とされる日用品(オリジナル缶詰の他、衣類、アルコール消毒、マスク、化粧品、ハンドクリーム、マスクやハンカチ、タオルや常備菜など)を詰め込んだ「付き添い生活応援パック」の無償配布を始めました。
この活動には15社以上の企業にも協賛いただき、さまざまな物品をご寄付くださったおかげで、総重量4キロほどのセットになりました。
提供した付き添い者のみなさんにも非常に喜んでいただけていて、現在の活動の柱になっています。

応援パックの中身

応援パックの中身

私が子どもに付き添っていたときから約10年が経ちました。
その間、医療は進歩しましたが、付き添い環境はほとんど変わっていません。
私たちは、これからも過酷な付き添い生活を少しでも楽に過ごせるように生活支援を中心としたサポートを続けていきます。
活動を広げていった先、在宅で子どもの看病をしている親にもサービスを届けられるようになりたいですね。
また、物理面での困難だけではなく、精神的なつらさを抱えている親の心の支援に対しても具体的なサービスを提供できないかと模索しています。

最終的には、キープ・ママ・スマイリングの活動がいらなくなる世界になってほしい。
でも、まだまだ道のりは遠いと感じています。

私たちが支援をしなくても困ることなく子どもに付き添える社会がくるまで、私たちは活動を続けていきます。
やりたい支援はたくさんあり、どこから手をつけるのか悩ましいのですが、地道に息の長い支援活動をしていきたいですね。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年5月)のものです

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