1食生活を振り返るきっかけになった、がん経験
私は新卒で大手人材会社に入社し、頻繁に終電を逃す仕事一筋の生活を送っていました。
私にとっては楽しい日々で、文化祭のようなノリでわいわい働いていましたね。
そんな仕事漬けの生活を送っていた29歳のとき、何の前触れもなく突然倒れました。
入院し、ついた診断名は「卵巣がん」。
片方の卵巣を取ることになり、3ヶ月ほど休職せざるを得なくなりました。
「30歳そこそこで最後を迎える可能性があるのか」と思い、命は有限であることを実感しましたね。
死を意識したことで自分の生活を振り返った結果、「食生活だけはなんとかしなくちゃいけないな」と思うようになりました。
がんになるまでの私は、夜中に家に帰ってカップ麺やドーナツを晩ごはんにするなど、ろくな食生活を送っていなかったんです。
深夜まで仕事をしているスタイルもなんとかしようと、復帰直後は20時頃には退社しようと心がけていたのですが、やっぱり仕事が楽しくて、徐々にもとの仕事スタイルに戻っていってしまいました。
ただ、たとえ3時まで働いた日でも、インスタント食品で食事を済ますことはなくなりました。
後輩や部下にも「食べたものが体を作るんだからね」と食事を大切にするよう伝えていましたね。
入社9年目の春、上司から新規事業開発室への異動を告げられました。
医療領域で新たにウェブメディアを作ることになり、担当を務めるよう言われたんです。
メディア作りに携わるのは私だけ。
どこからどう手を付ければいいのかまったく見通しが立たないのに「年内にオープンしてください」と言われ、途方に暮れましたね。
会社には「あなたはどうしたい?」と問う文化があり、入社直後から問われ続ける日々を送ってきましたが、責任者が別にいたため、私が先導する必要はありませんでした。
初めて「私が動かないと何も始まらない」状況に立たされ、責任の重さに恐怖を覚えましたね。
ただ、医療という分野自体には非常に興味を抱いていました。
私自身ががんサバイバーですし、がんになった同年に弟を亡くしている背景もあります。
自分自身がもっと知識を得たい領域で、そんな私だからこそ作れるメディアがあるのではと思うと、ワクワク感もありました。
とにかく、動かなければ始まらない。
まずは、メディアのコンセプトとペルソナを考え始めました。
コンセプトは「どういったメディアにするのか」、ペルソナは「記事を読むターゲット」を指します。
この土台さえ決められれば、あとは土台に沿って記事を作成していくだけとも言える、大切な部分です。
一人で考えるのには限界があり、周囲に力を借りつつ進めていきました。
デザイン会社やシステム会社も加わり、日に日にチームは拡大。
チームの一員だった私がチームを作る側に立ち、リーダーはみんなが目指す山頂を決めて伝える役目なのだと理解していきました。
難しさと責任に苦しみ、しばらくは寝ても覚めてもうなっていましたね。
がんは定期的に健診を受けていて、1つの区切りである5年が経った頃、主治医の女医に「1つ残された卵巣は、毎月がんばって卵子を出しているんですよ。あなた、子どもは考えないの?」とストレートに尋ねられました。
それまで妊娠出産を自分事として考えたことはありませんでした。
先生に尋ねられたときも、「いや、私はいいです」と答えたんです。
ただ、同時期にメディアの市場調査として行ったインタビューで不妊治療経験者に話を聞く機会があり、子どもは努力で授かれるものではないこと、誰もコントロールができない領域のものだと知り、妊娠や出産に少し意識が向いてきました。
そこで、子どもを産んだ知人友人に話を聞いてみると、みんな「子どもを産んで良かった」と言うんです。
「なんとかなるし、なんとかするんだよ」という言葉に、もし自分に縁があれば出産してもいいのかもと心が傾いていきました。
卵巣が1つ残ったのも、何かの縁だろうと思ったんです。
出産に前向きになったあと、妊娠。
つわりも特になく順調でした。
しかし、出産を迎えたその日、子どもはすぐに別の病院のNICU(新生児集中治療室)に運ばれることになりました。
出産直後の私の元に先生が入れ代わり立ち代わりやってきては、「このままだと赤ちゃんは死んでしまう」「手術をしなければ助からない」「手術をしても100%助かるわけじゃない」と怖い話ばかりするんです。
「お子さんは何万人に一人の病気です」と言われ、なぜうちなのか、私が何か悪いことをしたのかと自責の念に駆られ、泣いてばかりいました。
「お母さんのせいではありません」とも言われましたが、自分ではそう思えなかったです。
ようやく子どもにミルクをあげられたのは生後11日目。
他の新米ママと同様に、朝から晩まで子どもの世話のことで頭がいっぱいで、さらに子どもの命の危険への不安も加わり、自分のことに気を回す余裕は一切ありませんでした。
病院での付き添い生活3ヶ月目、無理がたたったのか、私が発熱。
自宅に戻らなければならなくなりました。
家で休んでいる間は夫が面会に行き、毎日子どもの写真を撮ってきてくれたのですが、だんだん子どもの目から力がなくなっていくように感じ、早く戻らなければと焦りを感じていました。
自分で話せない子どもの様子をつぶさに見て、医師や看護師につなぐのは私の役割であり、私も医療チームの一員として健康維持をしなければならないんだと思うようになっていきました。
また、親が倒れずに看病し続けるのは大変だとも実感しました。
子育てに少し慣れてきたり、子どもに付き添う母親の知り合いが増えたり、治療内容に応じて別の病院を経験したりすることで、付き添い環境の課題が見えてきましたね。
食事も課題の1つで、看病の合間に院内のコンビニに走っては、おでんの大根や卵、野菜ジュースで少しでも野菜の栄養を摂取しようとしていました。
そうして付き添い続けて半年、ようやく退院。
自宅で子どもと過ごせる生活がやってきました。