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血液がんを経験、人生をより楽しむように。
ファッションを通じて平和をつくる
【服飾系の専門学生・鈴木明日香】

目次
  1. ファッション業界で世界平和に貢献したい
  2. 悪性リンパ腫になって知った命の大切さ
  3. 人の心をときめかせるものをつくりたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、文化服装学院の3年生・鈴木明日香さんをご紹介。

小さいときからファッションの世界で働くことを夢見ていた鈴木さん。18歳のときに血液のがんである悪性リンパ腫と診断されます。半年の闘病生活を経て復学した鈴木さんがファッションに抱く思いとは。お話を伺いました。

1ファッション業界で世界平和に貢献したい

6歳のとき、ファッションデザイナーを目指す専門学生たちが主人公の漫画『ご近所物語』を、なぜか2巻だけ叔父からもらいました。
内容はあまり理解できませんでしたが、漫画のイラストや主人公たちのファッションが可愛くて、デザイナーって楽しそうだと思いました。
ファッション業界に憧れを抱くようになり、雑誌を買って海外のセレブたちの着こなしを見て楽しんでいましたね。
小学1年生の頃にはファッションの道に進みたいと思っていました。

中学校を卒業したらファッションの専門学校に進みたいと思いましたが、中学校の先生に「高校くらいは出たほうがいい」とアドバイスを受けました。
ただ、どうしても普通科に進学したくなかったので、英語を重点的に学べる国際学科のある高校に進学しました。
英語を学べばファッションの世界で国際的に活躍できると思ったんです。

高校ではダンス部に入り、勉強と部活漬けの生活を送りました。
午前4時に起きて、宿題や課題をこなして学校で朝練。
授業が終わった後は午後8時まで練習をして、帰宅後も、宿題や課題をこなして就寝。
死ぬ気で頑張らないとダンスも英語も上達しないと思っていたので、寝る時間はほとんどありませんでしたね。

高校では英語だけでなく、国際感覚を身につけるため国際情勢や社会情勢を学び、生徒たちでディスカッションする時間もありました。
高校2年生の夏休み、アメリカで行われた3週間ほどの留学プログラムに参加しました。

プログラム中、アメリカという異国から平和を考える経験をしました。
それまで、日本のような戦争をしない平和が当たり前だと思っていた私は、戦争による平和を当たり前と考えるアメリカでの暮らしを通して、さらに深く平和について考えるようになりました。

当時は中東地域でテロ組織の勢力が拡大していたこともあり、帰国後は世界ではどんな紛争が起きているのか、なぜ各地でテロが起きるのか、宗教や民族の考え方と民族間紛争の関係など、多くのことを理解しようと勉強しました。
学ぶなかで、国や宗教によって平和の定義が違うことを知り、当たり前ってなんなのだろうと考えるようになりました。

平和について勉強しているうちに、ファッション業界にも課題があることに気づきました。
発展途上国の工場で安い賃金で働く人たちによって服が大量生産され、その服が店頭に並んでも売れず、結果的に年間で何億着もの服が焼却処分されている問題を知りました。
憧れだったファッション業界の会社が、貧困層の人たちからの搾取に近い形で服をつくっていたと知り、ショックでしたね。

留学プログラムでアメリカを訪れていた頃の鈴木さん(左下段)

留学プログラムでアメリカを訪れていた頃の鈴木さん(左下段)

留学プログラムで平和についてのディスカッションをしていたとき、「あるオランダ軍の最高指揮官は平和をつくるために銃を持った」というエピソードが紹介されました。
その後、先生に「あなたなら平和をつくるために何を持ちますか?」と言われました。
私はうまく答えられませんでした。

帰国後も私は平和のために何を持てばいいのかを考えていました。
しばらく学校で勉強しているうちに、服の大量生産・大量消費の問題を思い出しました。
その問題が起こっている原因のひとつは、消費者が、新しい服が出ると古い服をすぐに捨ててしまうこと。
それなら、買ってからずっと愛着が持てる服をもっと世の中に広められれば、この問題は解決できるかもと思うようになりました。

2悪性リンパ腫になって知った命の大切さ

高校卒業後はファッションを学ぶため、服飾系の専門学校に入りました。
入学してすぐに受けた学内の健康診断で異常が見つかり、病院に行くように言われました。
高校3年生のときに、体のダルさが続いていた時期があったので、その影響かなと思いました。
病院に行って診断を受けると、先生は「血液のがんである悪性リンパ腫の疑いがあるので、検査をします」と言いました。
最初は驚きましたが、まあ大丈夫だろうと楽観的に考えていました。

でも、病院通いが何回も続くと、だんだん不安が大きくなっていきました。
不安になって自分で悪性リンパ腫のことを調べていくと、不安をさらにあおるような怖い情報がたくさん出てきて、情報を見るのがしんどくなっていきました。

検査から2ヶ月後、病院の先生からホジキンリンパ腫だと正式な診断を受けました。
まだ18歳なのに、これからの人生どうしようと思いましたね。
ファッションの世界で国際的に活躍したくてこれまで学んできたのに、1ヶ月先も生きていられるかどうかわからない。
不安が大きくなっていきました。

治療の準備を進めるなかで、病院の先生から治療方針の説明を受けました。
私の病気は比較的進行が進んでいて、どんな治療になるのか不安でした。
先生は「症状が重くても軽くても、この病気の基本的な治療方針は変わらないので、気にしないでください」と言いました。

私はこの言葉を聞いて、なぜか心が軽くなりました。
根拠があるわけでもないのに、病気は治ると思ったんです。

これから長い夏休みがやってくる、課題にも追われないし、もっと英語とか、知りたかったことを勉強しようかなとポジティブな気持ちに切り替わりました。
私は休学をして闘病生活に入りました。

治療する前、既に耳のピアスの穴が化膿していたこともあり、病院の先生から「ピアスの穴をふさいでください」と言われました。
抗がん剤治療で体の免疫力が下がると、化膿が悪化する可能性や金属アレルギーになる可能性があるからです。
当分は治療跡が隠れる格好をしなければいけないし、抗がん剤治療をすれば副作用で髪の毛やまつげが抜け落ちていく。
せめてピアスをすることでオシャレをしたかったのに、それすらもできなくなるかもしれないことが猛烈に悲しかったです。
病院で息ができないくらい大号泣していたら、後日、病院から「ピアスの穴はふさがなくていい」という連絡が来ました。
当時は、いかに自分らしい見た目を保とうかひたすら考えていたのでうれしかったですね。

2週間に1回通院し、投薬治療を行いました。
幸い治療は順調に進み治療が終われば、次第に体力も戻っていきました。
病気を経験して、私は命の大切さを身をもって学びました。
高校生のときは死ぬ気で頑張れば大丈夫と思っていたけど、病気になってからは生きていたいという思いを強く持ちました。
体に気をつけながら、楽しみながら人生を生きようと思いましたね。

半年の休学を経て学校に再入学しました。
1年生をもう一回することになり、前回は体がつらくてできなかったことも、2回目では存分に勉強することができました。
治療前は学校で2年間勉強したらアメリカに留学するつもりでした。
でも、病気になったことで5年間は日本で経過観察をすることになりました。
日本にいてもグローバル視点で勉強ができる学科に移ろうとグローバルビジネスデザイン科に転科しました。

3人の心をときめかせるものをつくりたい

現在は文化服装学院の3年生です。
卒業後は、自分が武器としている国際的・社会的な視点、多様性・相対主義的な視点を活かしながら、服やファッションを伝え、販売する仕事に就きたいと思っているので、まずは直近の就職活動やその先のキャリアを考えているところです。

今後はファッションを通じて、心がときめく人が増える世界をつくっていきたいです。
デザイナーが全力で服へ込めた想いを私が最高な形で世の中へ伝えることができれば、その服に愛着が出て、長く大切に使ってくれると思うんです。

服の大量消費は、服への愛着の少なさが原因の一つだと思います。
みんながその1着に恋をすれば、処分される服も減っていくはずです。
服の選び方や買い方が善い方向に変わることが、結果的に世界平和につながっていくと思います。

また、病気になった経験を活かして、入院生活や闘病生活を楽しめるようなファッションアイテムもつくってみたいです。
例えば素材や色、デザインを工夫してオシャレな入院着をつくれば、患者の心がときめいて、入院生活も楽しくなります。
個人的には、闘病中にアレルギーフリーかつ可愛いピアスを探すことが難しかったので、人生のどんなフェーズにいてもつけていられるピアスをつくってみたいですね。

これからもファッションを学んで、多くの人にときめきを与える仕事ができるようになりたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2021年2月)のものです

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