シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

母の認知症と父のがんで在宅介護に。
それでも続けた仕事が私の支えになった
【大手ゼネコンの管理職・長塚直美子】

目次
  1. 認知症になった母、がんになった父
  2. 在宅介護をしながら仕事の調整
  3. 仕事があったから介護を続けられた

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、鹿島建設株式会社で働く長塚直美子さんをご紹介。

30代半ばまで仕事に打ち込んできた長塚さんですが、母親が60代で認知症に。さらにその後、父親のがんが発覚し、両親を介護することになります。大変な状況のなか、それでも仕事は辞めず、介護と両立をした長塚さん。その背景にはどんな思いがあったのか。お話を伺いました。

1認知症になった母、がんになった父

大学では建築を学び、卒業後は大手ゼネコンに入社しました。
憧れていた業界だったので、目の前の仕事を全力でこなし、タワーマンションやショッピングセンターの建築に携わるなど充実した日々を過ごしていましたね。

一般職から総合職になり、さあこれからというとき、母に物忘れの兆候が出始めました。
母は指摘してもそれを認めず、怒ることもありました。
明らかに物覚えが悪くなっているので、病院に行くよう説得しましたが、病院嫌いでなかなか行ってくれませんでしたね。

そんな状態が1年ほど続くと、直前の行動を忘れるなど、日常生活に支障が出るまでになりました。
これは大変だと、母を説得し、父と3人で病院に行き、診断を受けました。
その結果、母は持病が悪化していることとあわせて、認知症であることが判明しました。
ある程度覚悟をしていたとはいえ、ショックでしたね。
でも、横にいた父が私よりもショックを受けていて、私は自分の感情を表に出せませんでした。

定年退職していた父、実家住まいの弟とともに母の世話をすることになりました。
都内で一人暮しをしていた私は平日は都内で仕事、週末は自宅から1時間半ほどかけて実家のある千葉に通う生活を始めました。
平日も母のことが気になっていましたが、目の前の仕事をこなすことで、気を紛らわせましたね。

母の症状は日に日に重くなり、料理などの家事はもちろんのこと、カテーテルを使ってのトイレなど、日常生活もできなくなっていきました。
母も、戸惑いや不安を抱えて生活していて、家族以外の他人を受けつけない状況に。
私や弟が仕事をしている平日の日中は、父がつきっきりで母を看てくれていました。

そんな生活が3年ほど続いた2010年、父にステージ4のがんが見つかり、入院が必要だと医者から言われました。
母に続いて父までも病気になるなんて。
父の病気も心配でしたが、これから母の世話はどうすればいいのだろうと弟と相談しました。

父が入院している間は、昼間病院に母を滞在させてもらい、朝夕送り迎えをする生活でした。
退院後しばらくは元気だった父ですが、3年ほどたった頃にがんが再発、余命1年と宣告されました。
余命宣告を受けた父に母の世話で負担をかけるわけにはいかない。
私は実家に戻り、両親の在宅介護をすることにしました。

会社の方は、上司と相談しながら、なるべく残業が少ない業務をさせてもらうなどしていました。
私の状況を理解し、受け入れてくれる上司や同僚に対して、最初はありがたいなと思っていましたが、徐々に負い目も生まれました。

もっと介護に集中できるよう、部署を変えたほうがいいのでは。
私は他の部署への異動を打診しました。
すると、上司に「1回異動すると戻れる保証はない。私たちがサポートするから、異動はしないほうがいい」と言ってくれました。
私は異動せず、できる限りの仕事に打ち込むことにしました。

父のがんが再発してから1年後の2014年、父は73歳で亡くなりました。
悲しみにひたる時間はありませんでした。
父が亡くなったことに母がショックを受けてパニックになっていたんです。
父の葬儀中も、母がさらなるショックを受けないよう、ケアに必死でしたね。

2在宅介護をしながら仕事の調整

父の死後、弟と2人で母の介護にあたりました。
2人とも仕事があるので、母につきっきりではいられません。
昼間はデイサービスの施設に母を預け、朝夕はホームヘルパーを頼み、夜は弟と交代で母と寝て、夜中に2~3度トイレに付き添う生活でした。

ただ、母が施設で「帰宅したい」と騒ぐような突発的な出来事が頻繁に起きるので、なかなか段取り通りに仕事が進みません。
母の具合が今後どうなるかも見えず、精神的にもつらい時期でしたね。
同年代の友人たちはご両親も元気なので相談できず、試行錯誤しながら仕事と介護の調整をしていました。

とはいえ、こんな気持ちのままでは仕事にも介護にも悪影響が出てしまいます。
それを防ぐにはプライベートもちゃんと充実させる必要があると感じるようになりました。

そこで私は弟と相談し、2人の仕事や休日の時間の使い方を見直すことにしました。
1週間ごとにお互いのスケジュールを確認し、「私は●曜日は30分残業できる」などと調整。
半日だけでも、仕事も介護もしない自由な時間をつくり、互いに息抜きできる日を持つようにしました。
それまでの私は、目の前の仕事も介護もがむしゃらにこなしていましたが、このときから更に効率を重視して段取りを組むようになりました。

ただ、計画通りに仕事をするにはどうしても同僚たちの理解と協力が必要です。
果たして理解を得られるだろうか、異動を考えた私を説得してくれた上司に相談しました。
上司は快く提案を受け入れてくれ、同僚たちも賛同してくれました。
本当にありがたかったですね。

職場での打ち合わせの様子

職場での打ち合わせの様子

同じ頃、会社から管理職試験を受けてみないかと打診を受けました。
母の介護もあって、仕事も調整してもらっているのに、このタイミングで試験を受けていいものかと迷いました。
でも、せっかくのチャンスだから受けてみようと思い、母の介護をしながら1ヶ月後の試験に向けて勉強を重ねました。

試験には無事合格し、管理職に昇進。
介護を通じて、効率的な時間の使い方を学んだことが結果につながったのだと思います。
30年近く仕事を頑張ってきたことが認められた気がしてうれしかったですね。

3仕事があったから介護を続けられた

母は2015年、71歳で息を引き取りました。
2年半の在宅介護は私にとってはあっと言う間でしたね。

介護中、仕事を手放す選択肢はありませんでした。
手放したら自分の人生が成り立たなくなるという意識が頭の片隅にあったからです。
両親の介護中も全力で仕事をしていることで気が紛れましたし、気分転換になっていました。

介護休暇を取らず仕事をしながらの介護が、両親にとって一番よかったのかはわかりません。
でも、私は仕事を続けてきたからこそ、介護に前向きに取り組めたと思います。

介護を通して、人に頼ることの大切さを学びました。
母を看てくれた父、一緒に介護した弟、職場の同僚たちには、とても感謝しています。

仕事は今後も精力的に続けていきたいです。
介護中は友人と約束ができず、一人でいることが多かったですが、最近は、住んでいる地域の方々と年齢や肩書を気にしない交流ができるようになり、プライベートも充実しています。

近隣の方々との一枚

近隣の方々との一枚

今年、長年働いていた建築設計の部署から異動になりました。
50歳を過ぎての部署異動は珍しいので、戸惑いもありました。
でも、会社側は私が新しい挑戦ができる環境を与えてくれたので、今は感謝しています。

介護を経験して、全体を俯瞰したり、調整したりするのは得意になりましたので、次の部署ではそんなスキルを活かしていきたいと思います。
また、これまでどのようにして介護に取り組んできたのかも、周囲で介護が必要になった方がいれば、積極的にお伝えしていきたいです。
私の経験を参考にしてもらえるとうれしいですね。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年10月)のものです

この記事は役に立ちましたか?
はい いいえ
ご協力ありがとうございました
Related Stories

関連ストーリー

この記事を読んでいる人は、こんな記事も読んでいます
シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

マイマガジン

旬な情報をお届け!随時、新規ジャンル拡充中!