1仕事の幅を広げるために、フリーの編集者に
大学生のとき、Windows95が登場しました。
インターネットが少しずつ世間に浸透していた頃で、大学には「これからはインターネットが絶対来る」と言う先生もいて、もっとインターネットのことを知りたいと思いました。
インターネットの情報を集めるには、パソコン雑誌を扱う出版社で働くのが早いと思いました。
早速アルバイトを募集している出版社を探し、パソコン雑誌の編集部でアルバイトを始めました。
アルバイトは入稿作業のお手伝いや雑誌のサイト更新がメインでした。
面白かったのは撮影補助です。
パソコン系の出版社だったのですが、カルチャー系の本も出していて、いろいろな経験をさせてもらいました。
自分の企画が通って、コーナーの担当もしました。
自分の企画が雑誌に載ったのがすごくうれしかったです。
あまりに面白すぎて、当初の目的だったインターネットの情報を集めたいという考えは、どこかにいってしまいましたね。
大学卒業後は世界を広げたくて、別の出版社に就職しました。
最初はご飯を食べるのも大変でした。
新卒じゃないので給与も最低水準だし、カツカツの生活です。
仕事自体に不満はなかったのですが、職場環境がよくなかったので、半年ほどで退職しました。
程なくして、別の出版社に就職し、漫画関連雑誌の編集を担当しました。
ここでの仕事はめちゃくちゃ楽しかったですね。
漫画家さんとのやり取りを経て新しい作品を二人三脚で作り上げていくのはやりがいを感じました。
仕事をしている時間は長かったですが、編集者としてのスキルが上がっていくのも実感できましたね。
2〜3年勤めると、あまりに居心地が良すぎて逆にまずいなと思うようになりました。
仕事に全く不満はないのですが、このままだと仕事の幅が広がらないなと。
実績をあげていたし、独立してもたぶんやっていけるだろうと、28歳で独立してフリーランスの編集者になりました。
2宮崎の魅力を知り、43歳で移住を決意
独立してからは不安もありましたが、なんとか仕事も途切れず数年を乗り切りました。
ある日、取引先で仲良くしていた人と「中国人向けの高級通販サイトをやろう」という話になりました。
まだインターネット通販サイトで国際的な取引を行う「越境EC」という言葉もなかった時代、彼と私を含めた3人で、会社を立ち上げました。
会社の事業構想に期待してくれたベンチャーキャピタルからの出資もいただきました。
仲間たちがサイト作りの準備をしている間、僕は自分にできることをやろうと、雑誌のモバイルサイトの開発や運用をしていました。
出資はもらっているものの、利益をあげておけば後々会社が楽になると思ったんです。
しかし、会社の本業である通販サイトの計画がうまくいかず、予定通りにサイト作りが進んでいないとわかりました。
初めての挑戦だし、うまくいかないのはしょうがないなと、僕は自分のツテを通じて、雑誌編集の案件を取ってきて売上をあげていました。
3人それぞれの役割を果たして、通販サイト作りにも取りかかりましたが、なかなか事業計画通りにはいかず、サイトがオープンできるのか雲行きが怪しくなってきました。
だんだん資金もなくなってきて、果たしてこの事業はうまくいくのかと不安になりました。
そんな状態がしばらく続いた頃、会社に出資をしていたベンチャーキャピタルの人が「私たちは通販サイトの将来性を見込んで出資したのに、なぜ別の事業で利益をあげているのか」と説明を求めてきました。
事業計画ではとっくに通販サイトができ上がっているはずでした。
でも、私たちは自分たちのスキルで利益を出せる仕事を優先していたんです。
ある日、ベンチャーキャピタルから「計画通りにできていないのであれば、会社の方向性を考え直さなければ」と通達を受け、役員が一人ずつ抜けていく形となりました。
まあ仕方ないなと思いましたね。
会社経営から離れた後は再びフリーランスの編集者として働きました。
ウェブコンテンツが拡大していくと、こうした記事編集やサイト運営の仕事も任されるようになりました。
会社から離れたときは、果たして生きていけるのだろうかと不安でしたが、仕事を振ってくれた周りの人たちに救われましたね。
仕事を通じていろいろな人と接する中で、僕の周りには宮崎県出身の人が多いなと気づきました。
その人たちは「今は東京に住んでいるけど、いつかは宮崎に戻って暮らしたい」と、地元・宮崎の魅力を熱く語ってくれるんです。
食べ物はうまいし、暮らしやすい、何より人が優しい。
僕は父親が転勤族で、小さいときからずっと同じ場所に住むような環境ではなかったので、地元と呼べる場所がなく、場所への執着があまりありませんでした。
しかし地元の魅力を語る彼らに惹かれ、将来は宮崎に住むのもいいなと思いましたね。
ある日、仕事の取引先でプライベートでも仲良くしている人が「地元の宮崎に移住することになった」と言ってきました。
周りで宮崎に戻りたいと話していた人も、ちょうど人生の転機を迎えたタイミングだったので、みんなで移住しようかという話になりました。
一人で移住して、一から人間関係をつくるのは大変だけど、仲良しの人たちと行くなら面白そうだと、移住の準備を始めました。
まずは月に一度、宮崎に行って土地になじむことから始めました。
街を歩き、人と接する中で自分にはこの土地は合っていると感じました。
東京と違ってゆったりとした時間が流れていて、県民がおおらかで、この街だったらずっと暮らしていけるなと思ったんです。
43歳のとき、僕は東京を離れて宮崎に移住しました。
宮崎では、育児をしながら働く母親の活躍の場が少ないと感じました。
僕に何ができるのか考えたとき、文章を書くスキルを教えることを思いつきました。
パソコンとネット環境があれば、子どもの側にいながらライターとして働けると思ったんです。
僕は早速、県内の主婦層を中心とした女性の就労支援の会社を立ち上げました。
働く母親に記事を作る技術を身につけてもらい、宮崎の魅力を発信するウェブメディアなどで記事を書いてもらっています。
「子どもとの時間も確保できて、スキルと収入も得られる」と喜んでもらえることも多く、大好きな宮崎に貢献できてうれしいですね。
3大好きな宮崎の魅力を発信し続ける
女性の就労支援の会社を経営する一方で、宮崎の魅力を全国の人に発信するコンテンツ制作会社の一員として働いています。
宮崎に住んでから2年ほどたちますが、移住して本当に良かったと思います。
魅力的な人も多いし、どの店もご飯がおいしい、まさに理想郷を見つけた感じで、こんな天国みたいな場所はないと思います。
今後は、宮崎の魅力をいろいろな角度から発信していきたいです。
今、宮崎市内の歓楽街「ニシタチ」の魅力を伝えるのに力を入れています。
僕は宮崎に移住した当初、ニシタチのスナック巡りをして、貯金を使い果たす勢いで飲み歩きました。
どの店も個性豊かで、毎日ニシタチに行っても飽きることがないんです。
今年に入って、私たちが企画したニシタチの魅力を伝える事業が観光庁の企画に採用されました。
国や自治体を巻き込んでもっと宮崎の魅力を発信していきたいです。
自分の半生を振り返ってみると、何かを成し遂げたいとか、目標に向かって生きてきたわけではないなと思います。
小さいときから、なるべく苦労しない人生を選んできて、その場にある面白い出来事や面白い人に流されてここまでやってきました。
つまらないことにはどうしても身が入らないんです。
僕は、変なこだわりを持たないように心がけています。
人間は歳を取ると「●●であるべき」というこだわりが積み重なっていきます。
そうなると行動や思考が制限されてしまいます。
こだわりを持たずに自然体で、大好きな宮崎の魅力を発信し続けていきたいです。
※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年9月)のものです