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3.11で変わった私の運命。
防災ガールにささげた私の青春
【防災ガールを7年間運営・田中美咲】

目次
  1. たまたま来た東京で東日本大震災に
  2. 防災ガールに全てをささげた20代
  3. 防災ガールで学んだ「本気を出せばなんでもできる」

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、社会課題に特化したPR・ブランディング会社を経営する田中美咲さんをご紹介。

東日本大震災をきっかけに復興支援に携わった後、2013年に「防災ガール」を立ち上げた田中さん。7年間の活動の後に解散し、現在は大学院に通っています。これからも社会課題をポップに解決していきたいと語る背景にある想いとは。お話を伺いました。

1たまたま来た東京で東日本大震災に

正義感が強い子どもでした。
いじめられている子を見たら助けたくなって、いじめっ子に立ち向かうタイプでした。
自分の周りに嫌なことがあったら、なんとかして早く解決したいと思っていました。

地元の横浜から、関西の私立大学に進みました。
両親が奈良出身で親戚も関西にいるので、関西で一度暮らしてみたいと思ったんです。

2011年3月11日、私は就職活動で横浜にいました。
午後2時46分、立っていられなくなるほどの大きな揺れが襲い、吐き気がしました。
東日本大震災が起こったんです。
この日は面接どころではなくなり、私は関西に戻らず横浜の実家でしばらく過ごしました。

ニュースで東北の様子を見るたび、焦燥感に駆られました。
学生で時間があるのに、何もしないのはあり得ないと思い、復興を支援する団体に参加し、福島県で災害や防災の情報を発信するサポートを始めました。
都内のIT企業に就職してからも定期的に福島へ行き、ボランティア活動に参加。
復興支援への思いが強くなり、2012年7月には会社を辞めて福島に移住し、県外避難を余儀なくされた方向けに復興支援の情報発信を行う公益社団法人に転職しました。

しかし、情報発信を続けていくうちに、こうした支援は対症療法的だと感じるようなりました。
いま苦しんでいる人たちを助けられても、もしまた大災害が発生したとき、同じような悲しみを繰り返してしまうと思ったんです。
災害が起きてから支援するのではなく、災害が起きる前に防災を呼びかけて被害を減らすべきだと考えるようになりました。

防災情報をもっと広めるには、私と同世代の若者をもっと活動に巻き込む必要があると思いました。
震災後しばらくして、地震が起きたときの様子を関西に住む友達に伝えたとき、関西では最大でも震度3程度の揺れだったので、どこか他人事のリアクションだったんです。
同じ日本であんなに大きな被害を生んだのに、自分の地域でなければ、こんなに関心を持たないんだなと思いましたね。

若い女性が防災を啓蒙すれば、その目新しさが話題となり世間にも防災への意識が高まるのでは。
震災から2年後の2013年3月11日、「防災があたり前の世の中をつくる」をミッションに掲げた「防災ガール」という団体を、私を含めた3人で立ち上げました。

まずはSNSで1日1回、防災情報の発信を始めました。
オシャレなデザインの発信に対し、賛同してくれる若い女性は多かったですね。
賛同してくれる人がいたのは単純にうれしかったです。
防災ガールのメンバーはどんどん増えていきました。

2防災ガールに全てをささげた20代

活動は多岐にわたりました。
サイトを作って普段から意識できる防災のノウハウを発信したり、若い女性が普段使いできる防災グッズを開発したり。
そうした活動が注目されて、メディアに取り上げられるようにもなりました。
2015年には一般社団法人化して、企業とのコラボも増えていきましたね。

試行錯誤しながら活動を続けるうちに、普段の生活に防災を根付かせることの大切さを理解してくれる人が増えました。
そして私たちのノウハウを取り入れてくれる企業や自治体も増えていったんです。

一方で批判や疑問の声もいただきました。
なんで若い女性がわざわざ防災情報を発信するのかという声もあれば、私がメディアに出てうまく活動内容を発信できなかったときには、ネット上でたたかれました。
個人情報をさらされたこともありましたね。
私たちはみんなの暮らしが良くなるために活動しているのに、なぜ批判されないといけないんだと思いました。
幸せになりたいと願う心は世界共通だと思っていましたが、私たちの活動を見て、防災に関心を持たない人もいると知りました。
より一層試行錯誤を重ねるようになりました。

団体を立ち上げてから5年ほどたった頃、少し落ちついた期間があり、活動を振り返りました。
そのとき、ふと「あれ、防災ガールってオワコン団体なのでは。ダサいな」と思ったんです。
団体の活動を通じて世の中の防災への理解も広がっていて、私たちの元には国内外から仕事の依頼や問い合わせがきます。
でも、いくらやっても対応が追いつかない。
このままでは私たちが死ぬまでに解決はしないなと感じました。
時代は変わっているのに、私たちは変わっていないと思いました。
仕組みから変えていくなど活動を大きく変えるか、団体の解散しかないと、漠然と思い始めました。

ある日、メディアの取材を受けた後、記者の方が「田中さん、今後も頑張ってくださいね」と言ってくれました。
記者さんは軽い気持ちで言ってくれたと思うのですが、この言葉を聞いたとき、「あれ、すごく他人事で締めくくるな」と感じたんです。
私たちはみんなに防災を啓蒙するために活動をしているのであって、私たちが頑張るために活動をしているわけじゃないんです。

私たちが活動をすればするほど、「防災のことは防災ガールに任せよう」という流れになってしまうのではないか。
防災ガールがいるから、世間はアクションを起こさないんじゃないか。
私たち任せになって防災に対する思考が停止してしまうのではないか。
だとしたら、私たちが存在する意味はないなと思ったんです。

私は防災ガールを解散する決断をしました。
解散の日を決め、最後の1年間は私たちのノウハウを継承するプロジェクトを立ち上げ、6つの団体に継承していきました。

2020年3月11日、東日本大震災から9年がたった日に防災ガールは解散しました。
3人で始めた団体は、最終的には延べ130人以上のメンバーが関わってくれました。

3防災ガールで学んだ「本気を出せばなんでもできる」

解散後、2つの活動を始めました。
一つは社会課題解決に特化したPR・企画会社の立ち上げです。
防災ガールとして7年間活動していて、社会課題解決に取り組む企業や団体を見ていると、「いい活動をしているのに、適切に伝えきれてなくてもったいないな」と思うことがあったんです。

防災ガールの活動で、どんな形で伝えるかを常に考えていました。
言葉の使い方やデザインにも力を入れていました。
防災ガールで培ったPRやブランディングのノウハウが、社会課題解決に取り組む人たちの助けになればと思います。

もう一つの活動は、大学院での勉強です。
防災ガールとして活動をしていたとき、自分の活動している範囲が防災分野しかなくて狭いなと感じていたので、もっと違う社会を学びたいと思ったんです。
宗教や哲学、社会学などをいろいろな方面から学び、2年くらいかけて私自身をアップデートしていこうと思っています。

「次は何をやるの」と聞かれますが、何をやるか、わざと決めないようにしています。
いまからでも動きたい気分なのですが、私は一度スイッチが入ってしまうと、その分野の課題解決にばく進してしまうんです。
今の私にはたくさんのインプットが必要だと思っています。
まずはインプットをして、その中で見つかった課題に対してアプローチしていこうと思います。

そのときにどんな立場でいて、何をしているかはなんでもいいんです。
社会がより良くなるための、課題解決ができていれば。
次の世代、その次の世代が幸せになるためにたくさんの課題を解決して死んでいきたいです。

防災ガールの活動を振り返って、気づいたのは、本気を出せばなんでもできるということです。
防災ガールを立ち上げて、最初の活動はSNSへの投稿でした。
ホームページの制作資金もクラウドファンディングで集めました。
お金も時間もないと思っていたけど、視点を変えて視野を広げてみると、できることはたくさんあるんだなと感じました。

次はどんな社会課題解決に取り組むかはわかりませんが、防災ガールのときと同じくポップにカジュアルに解決していきたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年6月)のものです

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