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「ポンコツ」からの脱却。
元気と前向きさを大切に、最高の仕事を
【企業のPRマネージャー・吉本慎之介】

目次
  1. 被災地のリアルを伝えたい
  2. ADとして誇りを持とう
  3. 体験談と元気を大切にして生きる

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、着物などの出張買い取りサービスを展開する株式会社バイセルテクノロジーズのPRマネージャー・吉本慎之介さんをご紹介。

高校まではプロ野球選手を目指していた吉本さん。東日本大震災でのボランティアを経験し、伝え手の仕事に憧れ、テレビ番組制作会社に就職します。ポンコツADと呼ばれていましたが、プロ野球選手からアドバイスをもらったことで大きく価値観が変化します。どのように吉本さんの価値観は変わったのか。お話を伺いました。

1被災地のリアルを伝えたい

小学2年生のとき、父親に連れられてプロ野球の試合を見に行きました。
その試合は、怪物ルーキー・松坂大輔投手と天才バッター・イチロー選手の初対決として注目されていました。
結果はイチロー選手が3打席連続三振、僕は球場で鳥肌が立ちました。
なんてカッコいいんだろう。
プロ野球選手を目指し、地元の少年野球チームに入りました。
小学校・中学校は野球漬けの毎日でした。

高校でも野球部に所属し、甲子園を目指して毎日練習しました。
しかし高校2年生のとき、練習中に突然腕に力が入らなくなり、ボールを投げられなくなったんです。
病院で診てもらったところ、「高校3年生の夏の大会までには治らないかもしれない」と言われました。
ショックでしたね。

必死に腕のリハビリに取り組みました。
少しずつボールが投げられるようなり、迎えた3年生の夏の大会ではレギュラーになれました。
努力したら報われる、ちゃんと練習すれば結果がついてくると心の底から思いましたね。

ですが、夏の大会に向けて練習する中で、プロ野球選手を目指すのは諦めました。
ボールが投げられなくなってから、人生で最も野球を練習して、結果を出すこともできました。
でも、このまま全力で練習を続けても急激にうまくならないと思ったんです。
後悔はありませんでした。

野球を辞めた後は憧れていた総合格闘技をやることにしました。
大学受験が終わってすぐに総合格闘技ジムに通い始めましたね。

プロデビューを目指して練習に打ち込んでいたある日、東日本大震災が発生しました。
震災によって、目指していた格闘技団体が試合をすることができなくなり、最終的に団体は消滅してしまいました。

震災から2週間後、知人から「被災地にボランティアに行くぞ」と言われ、ついていきました。
テレビでなんとなく様子は把握していましたが、現地を見て「日本ってこんな姿になってしまうんだ」と衝撃を受けました。
僕たちに何かできることはないかと現地を訪れたものの、何をしていいか分からず、立ち尽くすだけで、ほとんど力になれませんでした。

震災から約1年後、大学2年生の春休み、NPOが主催する災害ボランティアのリーダー養成プログラムに参加するため、宮城県の石巻に1週間ほど滞在しました。
初めてボランティアに行ったあの日、何もできなかった自分が悔しかったんです。
被災地に来たボランティアに的確な指示を出して、まとめ上げるノウハウや知識を学べました。

現地で活動する中で、物事は実際に見ないと語れないなと感じました。
東京の友人たちが語る「被災地は●●な状況らしいよ」という情報はほとんどがSNSで得た情報。
当時SNSは震災に関するデマやフェイクニュースが交じっていて正確な情報がつかめない状況でした。
自分が見た被災地の現状を、友人たちに的確に伝えたいと思いましたね。
プログラム終了後も、できることをしようと2週間に1度のペースでボランティアに行きました。

現地の情報を正確に伝える大切さを痛感し、マスコミ業界で働きたいと思いました。
特に人の思いを伝えるドキュメンタリー番組を作りたいと、テレビ番組の制作会社に就職しました。

2ADとして誇りを持とう

スポーツ番組に配属され、アシスタントディレクター(AD)として働き始めました。
仕事は雑用がほとんどでした。
会議の資料をコピーで刷ったり、先輩に言われた用事をこなしたり。
学生時代にラジオ局でアルバイトしたときの業務と変わらなくて、仕事ってこんなもんかと、意欲がなくなっていきましたね。
それが態度にも出てしまい、先輩からは「ポンコツAD」と言われていました。
夜11時の番組だったので、業務が終わるのは深夜1時過ぎ、そこから深酒をして帰宅。
二日酔いで出社する日も多かったです。
完全に仕事をなめていました。

半年ほどたった頃、番組にメジャーリーガーの川﨑宗則選手がゲストで来ることになりました。
僕は野球をしていたときから、どんな状況でも全力でプレーし、笑顔で選手を鼓舞する川﨑選手の大ファンでした。

番組が終わり、打ち上げで川﨑選手と一緒になりました。
この人なら、今の僕の悩みを聞いてくれるかもしれないと思い、意を決して相談してました。

「やりたい仕事が全然できなくて、ポンコツADと呼ばれていて、今の僕はすごく腐っています。どうしたら川﨑さんみたいに明るく振る舞えるんですか」

川﨑選手はこう答えてくれました。

「僕も調子が悪くて打てない日は、落ち込む。だけど、球場に来たら「川﨑宗則」であり続けないといけないんだ。明るくいるとファンが喜んでくれるし、チームが盛り上がる。それだけでもプロだと思う。まだできることは少ないかもしれないけど、吉本くんも、まずはADとして誇りとプライドを持って、周りの人に元気と感動を与えてみたらどうかな

プロの第一線でやっている人でも、ここまで周りのことを考えているんだ。
僕は、自分のことばかり考えていたのに気づき、情けない気持ちになりました。
ADの仕事は雑用ばかりで退屈でしたが、今の自分にはそれしかできないのだから、まずは笑顔で仕事をしてみようと思いました。

実践した翌日から仕事がうまく回り始めました。
笑顔でいることで先輩とのコミュニケーションも取れるようになったし、仲良くなった先輩にアドバイスをもらう機会が増えました。
任される仕事も増え、翌年にはディレクターの仕事もやらせてもらえるようになりました。

ディレクターの仕事をしてしばらくたった頃、ベンチャー企業で働く同世代の人たちと話す機会がありました。
彼らは自分たちのサービスを楽しそうに語るんです。
まぶしく見えましたね。
そのとき、ふと50歳の自分の姿を想像しました。
このままディレクターとしてずっと働くのか。
それは僕の望むことではないと思ったんです。

メディアの仕事は取材した対象を客観的に伝えます。
でも僕は当事者として寄り添う感覚で伝えていきたい想いのほうが強かったんです。
この想いを実現するにはマスコミ業界から離れて、ビジネスマンとしてのスキルを身につけたほうがいいと思ったんです。
結局、入社から1年半ほどで退職しました。

3体験談と元気を大切にして生きる

現在はバイセルテクノロジーズでPRマネージャーをしています。
主力事業は着物などの出張買い取りサービスです。
出張買い取りサービスはイメージが良くないという声もあるのですが、利用したお客さまの8割が「また使いたい」と言ってくれます。

現場のお客さまの声を正しく発信することで、誤ったイメージを覆し、まだ利用していない方にも「使ってみようかな」と思っていただけるようにしたいです。
そのために、実際に買い取り現場に行ってサービスの様子を見たり、買い取った着物の販売現場に足を運び、社員やお客さまの話を聞いたりしています。

「伝え手」としては、体験談を大切にしています。
ただ現地に行くだけでなく、現地の食べ物を食べたり、現地の人の話を聞いたり、自分で感じたこと、いいと思ったことを、熱量高く伝えていきたいです。

仕事をする上では、川﨑選手から教わった「何事も元気に前向きに、一生懸命やること」を大切にしています。
自分が笑顔で楽しく伝えないと、熱量も高くなりません。
社会人になってから今の仕事は4つ目ですが、どんなときでも笑顔で元気よくいればなんとかなりました(笑)。
今のポジションも人事異動で任されました。
経験のないPRの仕事でしたが、笑顔でいれば周りの人が助けてくれます。

川﨑選手とは「またいつか一緒に仕事をしよう!」と約束しました。
その日まで、笑顔を忘れずに頑張ろうと思います。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年6月)のものです

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ご協力ありがとうございました
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