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会社員、フリーランスを経て気づいたこと。
ご機嫌でいられる環境かどうかの大切さ
【フリーランスのPR・広報・児島麻理子】

目次
  1. 表現の楽しさを知る
  2. 仕事ってこんなに楽しいんだ
  3. 世の中に「楽しい」を提供し続けていく

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、フリーランスのPR・広報として活躍する児島麻理子さんをご紹介。

表現する仕事がしたくて新卒で出版社に入社するもやりたい仕事ができなかった児島さん。自分に向いてる仕事を見つけるのは難しいと語ります。そんな児島さんがどうやって今の仕事にたどり着いたのか。お話を伺いました。

1表現の楽しさを知る

激しく人見知りをする子どもでした。
人の顔をまともに見れず、大人の男性に挨拶されただけで泣いていました。

4歳のとき、劇団に入りました。
人前で演じることで人見知りを克服してもらおうと、両親が考えたんです。
6歳のとき、初舞台に立ちました。
全身に浴びるスポットライト。
私に注目する大勢の観客。
人前で表現するのがこんなに楽しいんだと感動しましたね。
自分を見て何かを感じ取ってもらいたいと思いながら演じていました。
子どもながらに役者という仕事が天職だと思いましたね。

この舞台の後、出演依頼がたくさん舞い込みました。
それから多くの舞台に出演し、学習ノートのテレビCMにも出ました。
現場に行くのが楽しみで仕方ありませんでしたね。

芝居の仕事は昼間がほとんどだったので、学校にはあまり通っていませんでした。
役者の仕事は楽しかったのですが、しばらくするときちんと学校に行きたいと思い始めました。
みんなと一緒に学校に通えなくて寂しくなったんです。

小学5年生のとき、劇団を辞めました。
両親には説得されましたが、迷いはありませんでした。
朝起きて学校に通ってみんなと同じ時間を過ごすのは、とても充実していました。

中学校まで勉強に力を入れてこなかったので、高校は真面目に勉強しようと私立の女子校に行きました。
先生や校則がとても厳しく、勉強できる環境ではあったのですが、全く楽しくありませんでしたね。
それでも勉強自体は好きで、大学に進学してからも打ち込みました。

就職先は自分の心に素直に選ぼうと思いました。
役者のときに感じた「表現する楽しさ」を軸に探し、文章を書く仕事やしゃべる仕事に興味を持ちました。
出版社やテレビ局を中心にエントリーし、最終的には出版社に就職しました。

主に法令書を出版する会社でした。
取引先の地方自治体とイベントの企画・運営を行う部署に配属されました。
文章を書きたいと思って入ったのに、書く仕事は全くできませんでした。
楽しくない、この環境は自分を活かしきれないと思い、23歳のとき退職しました。

出版社を辞めた直後、学生のときに読者モデルをしていた雑誌の編集者と会って、話す機会がありました。
話を聞いた編集者は「ウチの雑誌で良かったら、フリーのライター枠があるからどう?」と言ってくれました。
なるほど、フリーランスになればいろいろな雑誌で書く仕事ができるのか。
働き方に魅力を感じ、企業に就職せず、フリーランスのライターとして活動
を始めました。

ライターの仕事は楽しかったです。
取材を通じていろいろな人に会えることにワクワクしましたし、自分の文章で読者に新しい情報を届けられるのはやりがいがありました。

慣れてくると、企画の段階から関わってみたいと思うようになりました。
それができるのは編集者だと、自分が好きな雑誌の編集部に直筆の手紙を書いて働きたい意思を示しました。
熱意が通じたのか、編集部の人が面接に応じてくれて、24歳のとき編集部で働き始めました。

2仕事ってこんなに楽しいんだ

最初は自分から提案した企画がすんなり通らず、大変でした。
編集長からアドバイスを受けてもなかなか理解できず、何が正解なのか分からず、モヤモヤした日々が続きました。
そんな中、同僚の編集者は企画を通し、どんどん誌面に掲載されていきます。
私の企画と一体何が違うのか分かりませんでした。

自分の企画や記事が掲載されるページも少なく、自分はこの仕事に向いてないと感じ始めました。
そんな中でも楽しかったのは、外に取材に出て、人と会うことでした。
取材後に少しだけ時間を頂いて、自分の悩みを話し、励ましの言葉やアドバイスも頂きましたね。

でも、モヤモヤした状態が晴れたわけでありません。
ずっと辞めたいと思っていたんですが、不安が勝ってなかなか決断に踏み切れなかったんです。
自分の気持ちに見て見ぬ振りをしていた感覚でしたね。
でも、30歳になるまでに決着をつけないと次の一歩を踏み出せないと思い、29歳のときに5年勤めた編集部を辞めました。

次の仕事も決めず、辞めた翌日にフランスに向かいました。
フランスにはしばらく滞在して、やりたいことが見つかったときに次の行動をしようと思っていました。

3ヶ月ほどたって一時帰国をしたとき、前職で取材をした洋酒輸入販売会社の人と会う機会があり、「広報の仕事が空いているんだけど、良かったらやってみない?」とお誘いを受けました。
広報の仕事は未経験でしたが、お酒の文化には興味がありました。
広報の仕事を通じて、もっと日本の人にお酒の文化を広められたらいいなと思い、入社しました。

入社当時、会社で取り組んでいたのが、日本での認知度が低かったカクテル「モヒート」を広める活動です。
イベントを開催したり、Twitterを活用したり、PRの取り組みを行うことで、モヒートが市民権を得ていく経験は私の自信になりました。

こうしたプロジェクトは社内一丸で取り組まないと成果は生まれません。
他の部署の人が私に意見を求めてくることもありました。
自分を必要としてくれていると感じ、うれしかったですね。
チームの中で働くのは、居心地が良かったです。
仕事って、こんなに楽しいんだと思いましたね。

でも、10年ほど勤めて40歳を迎えた頃、果たしてこのままでいいのかという思いと、新しい挑戦がしたいという思いが湧いてきました。
もっと自分なりの仕事の仕方でお酒の文化を広めたいと思い、退職してフリーランスになりました。

3世の中に「楽しい」を提供し続けていく

現在はフリーランスとしてPR・広報のほか、お酒文化を広めるためのライター業もしています。
前職のPRや沖縄のビールメーカーの広報、雑誌でバーテンダーを紹介する連載記事を執筆しています。

個人としては、特に「バーカルチャー」の普及に努めています。
欧米では若い人が気軽にバーを利用していて、男女問わず交流の場として使われています。
日本のバーはまだ少し敷居が高いので、若い人たちが楽しめる空間としてバーを使ってもらえるようになればいいなと思います。

自分の半生を振り返ると、つまずいたこともありました。
見切り発車で就職や転職をして、後悔することもありました。
でも、全て学びとなって、今に繋がっています。

自分に向いている仕事や、やりたいことを見つけるのは難しいと実感しています。
でも、自分がいきいきしている時期で共通しているのは、自分が心からその場を楽しめているかどうかでした。
周りが楽しくないと楽しくないし、自分が楽しくないと周りも楽しくないと思います。

私は勇気がなく、嫌なことが積み重なったときにようやく決断するタイプです。
勇気を持って決断するのがいいと分かっているのですが、なかなかうまくいきません。

でも、どれだけ自分のご機嫌を保つかが大切だと、40年生きて分かってきました。
これからは、自分がご機嫌でいられる環境かどうかを基準にして、人生を選択していこうと思います。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年6月)のものです

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