1仕事を投げ出して失踪
中学生のとき、先生に「親から自立するには、今から準備をしないとダメだ。将来どうするか、今からきちんと考えなさい」と繰り返し言われました。
僕は「今から準備しておかないと、将来大変なのか…」と、不安になりました。
不安を払しょくすべく勉強に打ち込みました。
教師を目指し、釧路にある教育大学に進学しました。
公務員という安定を求めた結果です。
大学では勉強はそこそこに、好きな映画ばかり観ていました。
観るだけでは飽き足らず、『Shall we ダンス?刑事』という作品を作ったこともありました。
大学2年生のとき、映画作りへの想いが募り、学校を辞めて横浜の映画専門学校に行こうと思い立ちました。
その旨を父と母に伝えたところ、「映画業界は堅気の世界ではないんだよ」と猛反対。
僕も言ってはみたものの、その世界でやっていく自信はどこにもなかったし、田舎で育った自分にとっては夢のような世界だったので、すぐにおじけづき、専門学校に行くのは諦めました。
大学在学中に教員採用試験を受けたのですが、不合格。
卒業後、半年ぐらいは家でゴロゴロしていました。
当時は就職氷河期で、周りの友だちも教職に就けない人が多かったので、そんなに焦りはありませんでした。
臨時教員の登録をして、学校側からのオファーを待ちながら、正式な教員になるための勉強をしていました。
25歳のとき、網走の中学校に数学の臨時教員として赴任しました。
赴任後に、前任のベテランの先生は心の病で退職したと知り、「ペーペーの自分にこの学校が務まるのか…」と一気に不安になりました。
不安は的中しました。
生徒がまともに僕の授業を聞いてくれないのです。
授業崩壊です。
学校で数学担当の教師は僕ひとり。
全生徒の数学の学力は自分の肩にかかっていました。
すごいプレッシャーでした。
それだけでなく、バスケットボール部の顧問も任されました。
授業の準備は忙しい、「中川先生の授業はよくわからない」と生徒の保護者には指摘される、バスケットボールの審判の勉強はしなくてはならない、慢性的な首肩の張り…だんだんと精神的に追い込まれていきました。
そんな生活が数ヶ月続いた頃、心身ともに限界になり、「風邪を引いた」とウソをついて学校を休みました。
その後無断欠勤。
もう学校には行きたくありませんでした。
無断欠勤から数日後の早朝、「探さないでください」という書き置きを残し、誰にも行き先を告げずに住んでいた教員宿舎を飛び出し、失踪しました。
車でしばらく走った後、それを駅に乗り捨て、駅からは電車や船を乗り継ぎ、東京に向かいました。
東京から好きな映画「時をかける少女」の舞台である広島の尾道へ行き、ロケ地を巡りました。
次はどうしようかと財布を見ると、所持金が残りわずか。
「もうこれまでだな」と滞在先のホテルでドアノブにタオルをくくり、そこに首をかけました。
でもすぐに止めました。
その後、東京で大学生をしている弟のところへ行きました。
ホームレス生活に入る前に会っておこうと思ったのです。
弟に会い、失踪の話をしました。
すると弟は笑って一言、「兄ちゃんやってるねー」と。
なぜかその姿を見たとき、「実家に戻ってみよう」という気持ちになったんです。
実家に戻ると両親が「おかえりなさい」と全く怒ることなく僕を受け入れてくれました。
親の愛を感じました。
両親、赴任先の先生方、生徒たちには、多大なご心配とご迷惑をかけてしまい、本当に申しわけない気持ちでいっぱいでした。
2人間はいつ死ぬか分からない
実家に戻ってからはアルバイトを転々としていました。
29歳のとき、教育委員会で働いていた父が、小学校の特別支援学級の臨時教員の仕事を紹介してくれました。
100%コネです(笑)。
こんな僕に務まるのかと思いましたが、せっかく勧めてくれたので働き始めました。
仕事は自閉症の子どもにマンツーマンで勉強を教えること。
毎日が充実していました。
初めて教員の仕事にやりがいを感じました。
その年の大晦日、仕事を頑張った自分へのご褒美にと札幌の風俗店に行きました(笑)。
サービスを受けていると、後頭部にバットで殴られたような痛みが走り、ベッドにうずくまりました。
全身から吹き出す脂汗。
すぐに救急病院に運ばれました。
病名はくも膜下出血。
生死の境をさまよいました。
なんとか手術は成功し、1ヶ月後に退院。
幸い後遺症はありませんでした。
くも膜下出血を経験してから、「人間いつ死ぬかわからない」と思うようになりました。
教員の仕事にもやりがいを感じていましたが、「本当に好きなことをを今すぐ始めなければ!」と思いました。
自分が本当に好きな映画作りに取り組もうと考えました。
でも作るには多額の費用と人員がかかるのですぐに始めるのはなかなか難しい。
そもそも自分は映画作りのどこに魅力を感じているのだろう。
考えてみると、「ストーリーを作り、それを表現すること」だと気づいたんです。
「それって映画ではなく漫画でもできるな」と思いました。
漫画ならお金も人もそんなにいらない。
それに今までにも遊び程度ではあるけれど描いたことがある。
「これだ!」目の前がパッと開けました。
その後はいろいろな漫画誌の新人賞に応募しました。
でも鳴かず飛ばずでした。
本格的に漫画を描き始めてから3年がたった頃、広告漫画などを扱う北海道の出版社から、「良かったらうちのホームページで描いてみませんか?原稿料は出ないけれど、広告関係の方がよく見ているので、広告漫画の仕事につながる可能性はありますよ」とオファーを受けました。
とてもうれしかったです。
もちろん快諾しました。
初めてアップされたのを見たときは興奮しました。
それから1年後、少しだけ自分の漫画に自信を持った僕は、東京に行ってみようと思いました。
地方でくすぶっているよりも、思い切って上京した方がチャンスが広がると思ったからです。
早速住むところをネットで調べてみました。
すると、漫画家志望の若者に格安で住居(シェアハウス)を提供するNPO法人「トキワ荘プロジェクト」が目にとまりました。
「漫画家志望者、格安住居…。自分のためのプロジェクトじゃないか!」。
僕はすぐに応募しました。
そして、審査を通過し2010年に上京しました。
トキワ荘プロジェクトでは、入居してから3年以内に商業誌に掲載、単行本発売などなんらかの成果をあげないと強制的に退去させられるルールがあったので、必死に作品を描きました。
初めはフィクションを描いていたのですが、なかなか結果が出ませんでした。
ある日、知り合いの編集者さんに昔描いたエッセイ漫画を読んでもらう機会がありました。
彼は「これ面白いですよ」と言ってくれました。
そこから話はトントン拍子に進み、孤独な大人が本気で友だちづくりに挑戦するエッセイ漫画『僕にはまだ友だちがいない 大人の友だちづくり奮闘記』でデビューすることができました。
3準備しているうちに死ぬかもよ
デビュー以来、失踪した話(『探さないでください』)や風俗店でくも膜下出血を発症した話(『くも漫。』)、群馬県のブラジル人が多く住む町に半年間滞在した話(『群馬県ブラジル町に住んでみた ラテンな友だちづくり奮闘記』)など、自分の体験を元にしたエッセイ漫画を執筆し続けています。
ありがたいことに『くも漫。』は映画化されました。
映画好きの自分にとってこんなにうれしいことはありません。
ただ、風俗店でくも膜下出血を発症するシーンを親戚一同で観たときはいたたまれなかったです(笑)。
生死の境をさまよう体験をしてからは、好奇心にしたがって行動することが増えました。
将来の準備のためにとか、安心・安全・安定のためにとか、人に嫌われないようにという動機で行動することが減りました。
漫画家の卵の中には、「納得のいく絵を描けるようになってから」とか、「シナリオ術をマスターしてから」と言って、準備ばかりしてなかなか作品を作り始めない人、完成させない人がいますが、そういう人には、「準備をしているうちに死ぬかもよ」と囁きたくなります(笑)。
今後はエッセイ漫画だけでなくフィクションも描いてみたいです。
「ワクワクドキドキして笑ってちょっと泣けて読み終わった後にスッキリした気持ちになる作品」が自分の理想の漫画です。
そういうものが描けるようこれからも精進していきたいです。
※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年6月)のものです