シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

優等生はもうやめた!
フリーターから教育者に転向、その理由とは
【不登校支援の教育施設を運営・豊島吾一】

目次
  1. 「うそやろ!」と思える瞬間が楽しく面白い
  2. 東京で散々遊んだ…祖父の死をきっかけに帰郷
  3. 腹を割って話せば生徒は信頼してくれる

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、不登校の子どもたちの支援をしている今治高等学院の学院長を務める豊島吾一さんをご紹介。

周囲が突然スーツ姿に変わることに違和感を覚え、スーツを着る仕事には就きたくないと、就職活動をせずフリーターになった豊島さん。26歳のときに地元に戻り、学校運営に携わるようになりました。なぜ、フリーターから教育施設の運営者にになったのか。お話を伺いました。

1「うそやろ!」と思える瞬間が楽しく面白い

愛媛県今治市で生まれました。
父親が自宅で学習塾を経営していたので、勉強のできる子どもでした。
高校は進学校に進みました。
しかし入学して最初のテストは散々な結果。
「1日4時間は勉強しないと授業についていけない」と先生に言われました。

今まではそんなに勉強しなくても成績が良かったのに、1日4時間も勉強をして成績を上げていくのはとてもしんどいと思いました。
そのときふと、「この際、すっぱり勉強をやめよう」と決意しました。
すがすがしいまでに晴れやかな気持ちになりましたね。

それまで勉強ができて真面目なキャラに見られていましたが、突如勉強できないキャラに変わり、やたら周りからいじられるようになりました。
今まで味わったことのない解放感があり、楽しい日々でしたね。

高校3年生までサッカーに打ち込み、部活が終わってようやく進路を意識し始めました。
地元で就職しようか、今から目指せる大学でも行こうかと考えていたところ、父親が「どうせ進学するなら中途半端に地元を選ばず東京へ行け」とアドバイスしてくれました。

よし、じゃあ東京で大学生活でも送ってみるかと、同じような状況の仲間と一緒に進学に向けて猛勉強を始めました。
努力が実り、父親と同じ大学に合格できました。

大学では、ほぼ勉強しませんでした。
単位だけ落とさないようにして、アルバイトをして稼いだお金でライブを見に行ったり、歌が好きだったのでボーカルスクールに通ってみたり、東京生活を満喫しました。
高校の時は就職も考えたけど、大学に進学して本当に良かったと思いましたね。

就職活動の時期になって、一緒に遊んでいた友達が急にスーツを着ていろいろな会社の面接を受けに行くようになりました。
僕はみんなと同じように就職活動することに戸惑いを感じました。

記念のつもりで、スーツを着なくても良さそうな音楽出版系の企業を何社か受けました。
しかし本気でやりたいこともなく、ぼんやりしたまま活動していたので、当然のごとく落ちました。
結局、きちんと就活をしないまま、そのうち何か見つかるだろうと、大学を卒業してフリーターになりました。
家庭教師やデザイン事務所でアルバイトをして生活していました。

時間に自由が利くので、自分たちで何か面白いことをしようと、10人ほどの友人たちとDJイベントと称したバーベキューパーティーを多摩川で開催しました。

せっかくやるならと、手作りにこだわりました。
既製品を使わずに、イベントを作ろうと考えたんです。
半紙に筆ペンで書いたふざけた設計図を片手に、木の柱と大きな布でテントを作りました。
いざ設営を開始すると、地面が硬くて柱が打ち込めなかったり、布の長さが足りなかったりと、全くうまくいきませんでした。
バーベキューキットすら持ち込むのは邪道だと、肉を焼く網だけ持ち込んで、河原の石を積んで肉を焼きました。
しかし、積んだ高さが低く、風が吹くと砂が肉に被って食べられなくなりました。
周りから見ると、本当に無意味なこだわりですけど、僕にはとても大事だったんです。

ある程度の失敗やハプニングは想定していました。
でも、やることなすこと全てがうまくいかず、「うそやろ!」と思うような想像を超えたハプニング続きだったので、悲しさを通り越して笑ってしまったんです。

そのイベントを経験して、仲間とゼロから何かを作って、トライアンドエラーを繰り返すのが面白いと思えるようになりました。
想像もつかないエラーやハプニングが発生して「うそやろ!」と思える瞬間に出会えるのが楽しくてしょうがなかったんです。

2東京で散々遊んだ…祖父の死をきっかけに帰郷

大学卒業から1~2年がたった頃、友人たちが正社員として働き始めました。
その様子を見て、「僕もそろそろ就職してみようかな」と思い、都内の眼鏡ショップに就職しました。
学生時代から眼鏡をかけるようになり、眼鏡で雰囲気を変化させる面白味にハマったので、好きな眼鏡に囲まれて仕事ができればいいなと思ったんです。

仕事を始めてから接客自体はとても楽しかったです。
ただ、閉店後にフレームに合わせてレンズをカットしてはめる作業を長時間行わなければならず、スタッフの入れ替わりで仕事量が増えると連日終電で帰るようになりました。
そのような日々が続いて、気持ちが落ち込み、鬱のような症状が現れるように。
結局、2年弱で仕事を辞めました。

26歳のとき、実家から電話があり、祖父が亡くなったと知らされました。
僕はおじいちゃん子だったので、家族は気を使ってか「おじいちゃんの心臓が止まった」とだけ伝えてくれました。
最初はピンときませんでしたが、祖父の家に向かう道中、徐々に悲しみが溢れてきました。

このとき、自分の人生を初めて見つめ直しました。
東京の楽しさは十分味わった。
ここから先、今治にいる家族はどんどん亡くなっていってしまう。
もう東京にいる理由はないし、そうなる前に家族の元に帰らないといけない。
今治で働こうと思いました。

今治に帰る準備を進めていると、父親から連絡がありました。
話を聞くと、不登校の子どもたちのために教育施設「今治高等学院」を作ったので、しばらく運営の手伝いをしてほしいとのことでした。
就職先が決まるまでならいいかなと、僕は学校運営のサポートを始めました。
塾講師の経験がなかったので最初はわからないことだらけで、父親の見よう見まねで、とりあえずやってみるの精神で生徒に向き合いました。

だんだん生徒の人数が増えてくるにつれて、自分に任される仕事の範囲や責任が増えました。
どうせなら、きちんと教員免許を取ろうと思い、通信制の大学で教員免許を取得、学習障がいのある子どもに勉強を教える資格も取得しました。

3腹を割って話せば生徒は信頼してくれる

現在は「今治高等学院」の学院長として、20人ほどの生徒に向き合っています。
不登校などさまざまな事情で高校に通うのが難しい生徒が、自分のペースで学んでいます。
これまでに70名を超える子どもがここで高校卒業資格を取得し、社会に巣立っていきました。

初めの3年くらいは苦労しました。
学校の先生っぽくあろうとして、先生と生徒という形式の中で接していました。
でも、そうすると、生徒と本当に通じ合えないと感じたんです。

どうすれば生徒と心を通じ合えるのか、考えた末に出てきたのは、恥や失敗をありのままにさらけ出すことでした。
知らんもんは知らん、できんもんはできん、人間対人間で腹を割って話すから、生徒が信頼してくれる。
自分なりにうそをつかずに話すのが大事だと気づいたんです。

卒業生の中には、格闘家デビューした女の子、高級車専門の整備士になった男の子、役者を目指して今治を飛び出した子もいます。
この仕事をしていると、子ども一人ひとりのストーリーをそばで見れます。
そのストーリーが見たいからこの仕事をしていると言っても過言ではないです。
生徒と知り合ったからには、どこまでも仲間の精神でいようと思います。
彼らのストーリーを末永く見守り続けていきたいですね。

教育の他に、音楽も自分にとって大切な軸です。
2013年から、子ども連れの親子でも楽しめる音楽フェス「ハズミズム」を1~2年に1回のペースで開催しています。
ハズミズムの源泉は、20代のときに多摩川で開いたイベントです。
これもまたたくさんの失敗を繰り返し、思いも寄らないハプニングにも見舞われていますが、それもみんなで「うそやろ!」と楽しみ、面白がっています。

今後はもっと「うそやろ!」と思う出来事に出会える人生を歩んでいきたいです。
その出来事に周りを巻き込んで、賛同して手伝ってくれる人が喜ぶ姿を見たいです。

ある程度年を重ねてきたこともあり、自分だけが喜ぶようなことはもうあまり感動しなくなりました。
たかが知れていると思ってしまうんです。
自分の手を離れても、周りの人が勝手に面白がって、その人なりに発展させてくれれば、自分の予想を超えたものが生まれる。
それが結果として僕の喜びにもつながっています。

周りの人が自分の人生を楽しむ様子を見ながら、僕はまた次の「うそやろ!」な出来事を探し続けていきます。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年5月)のものです

この記事は役に立ちましたか?
はい いいえ
ご協力ありがとうございました
Related Stories

関連ストーリー

この記事を読んでいる人は、こんな記事も読んでいます
シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

マイマガジン

旬な情報をお届け!随時、新規ジャンル拡充中!