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ずっと自分に自信が持てなかった。
殻を破り、介護福祉士兼モデルになったきっかけとは
【介護福祉士/モデル・上条百里奈】

目次
  1. 私を受け入れてくれたおじいちゃん・おばあちゃん
  2. モデルであることは介護に活きる!
  3. 100歳まで楽しく生きる人を増やしたい

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、介護福祉士・モデルとして活動する上条百里奈さんをご紹介。

中学生のとき職場体験学習で老人保健施設に行き、おじいちゃん・おばあちゃんの無条件の優しさに触れた上条さん。介護福祉士としてキャリアを重ね、現在は介護福祉士・モデル・研究生とさまざまな方面からのアプローチで介護現場の改善に取り組んでいます。そんな上条さんの思いとは。お話を伺いました。

1私を受け入れてくれたおじいちゃん・おばあちゃん

私は内気で物静かで、よく人見知りをする子どもでした。
人前に立つのは得意ではなく、学校の授業では一度も手を上げませんでした。
人見知りだからだと思っていたのですが、今思えば、単に自信がなかったのだと思います。

物心ついたときから看護師に憧れていて、マザー・テレサやナイチンゲールに関する本を読みあさっていました。
将来は命を助ける仕事がしたいと思っていました。

小学5年生のとき、母方の祖父が亡くなりました。
とても悲しかった上に、あまりいい死に方ではなかったので、残された家族はしばらく祖父の話題を避けていたほどでした。
人がどう死ぬかによって、あとに残された家族の生き方にこれほど影響するのかと思いました。
このときから、ちゃんと生きるのも大事だけれど、ちゃんと死ぬのも大事だなと思うようになりました。

中学2年生のとき、学校で2日間の職場体験授業がありました。
看護師に憧れていたので、病院に行きたかったのですが、人気だったので枠が埋まってしまい、第2希望だった老人保健施設に決まりました。

施設に足を運ぶと、認知症で介護が必要なおじいちゃん・おばあちゃんが大勢いました。
自分の身近にこんな人たちがいたんだと衝撃を受けました。
同じ町に住んでいるのに「なぜ、今まで出会わなかったのか」と不思議に思いました。

施設ではオムツ替えやお風呂の介助、食事介助の手伝いをしました。
見ず知らずの私を利用者さんたちは笑顔で受け入れてくれました。
それだけでなく、うまくできず、決して役に立っているとは言えない私に「ありがとね」とか「お茶でも飲んで休んでいきなさい」と、とても優しくしてくれたんです。
高齢者ってカッコいい。
普通なら怒るような場面でも感謝を忘れない、その姿に感動しましたね。

利用者さんの力になろうと必死でした。
自分が何かのために必死になれることがうれしかったです。

職場体験期間が終わった後もボランティアとして施設に通うようになり、介護への思いが強くなっていきました。

高校は介護の勉強ができるところを選びました。
施設や特別支援学校でのボランティアは続けていましたが、周りの人には言えずにいました。
いい人ぶっているとか、変人とか思われ、否定されるのが怖かったんです。

高校卒業後は短大へ進学し、介護福祉士の資格を取得。
卒業後は地元・長野県の老人保健施設に就職しました。
念願だった介護の仕事にようやく就けました。

2モデルであることは介護に活きる!

ボランティアではなく仕事になったので、業務の幅が広がり、施設のおじいちゃん・おばあちゃんと心が通じ合う瞬間が増えました。
仕事にして心から良かったと思いましたし、夜勤を含めた長時間労働も苦になりませんでした。

ある日、緊急入所でおばあちゃんが運ばれてきました。
おばあちゃんは頭や肩、腰まで褥瘡(床ずれ)の症状が出て、骨も見えている状態だったんです。
なんでこんな状態になるまでSOSを出せなかったのか、介護をしていた旦那さまに聞いたら「妻が認知症であることも、介護を受けることも、恥ずかしくて言えなかった」と教えてくれました。
衝撃でした。

この頃は社会全体に「介護は恥ずかしい」といった風潮がありました。
デイサービスの送迎車に乗ったとき、ご家族に「家から離れたところに停めてください」と言われたことが何度もありました。
介護を受けることは恥ずかしいことなのか、いや違う。
「ニキビ出来たよ」「風邪引いちゃった」と同じフランクさで「介護が必要なのよね」「認知症になっちゃったんだ」と言える社会にしたい。
そんな社会が介護の現場には必要だ。
介護福祉士として、介護技術を高めるだけでなく、介護を受けやすい社会に変えていこうと、決意しました。

その一歩として、適切な情報が適切に伝わるのが重要と考え、勉強会に参加し始めました。

ある日、介護福祉の学会に参加したときのことです。
先生たちの発表を聞くと、私が課題に感じていたケアに多くの解決法が提示されていました。
解決策がないわけではない。
現場に、家族に、必要な人に届いていないだけだったんです。

学会の帰り道、電車の乗り継ぎで立ち寄った新宿駅で「モデルになりませんか?」とスカウトされました。
人見知りで自信もない私がモデルになれるのかと、最初は驚き、悩みました。
でも、モデルになれば、公共の電波を使って介護の現状や課題が広く発信できると思ったんです。
もう、あんなひどい褥瘡になるまで我慢していたおばあちゃん、それを言えなかったおじいちゃんのような人を見たくない。

モデルは介護に利用できる!私は長野の施設を辞め、上京しました。

モデルの仕事は楽しかったです。
かわいいメイクをして雑誌に載ったり、ファッションショーでランウェイを歩いたり、夢みたいな時間でした。
モデルの仕事をしていくうちに、これまでなかった自信を持てるようになりました。
スタッフさんに求められて、自分の意見を出す余裕も出てきたんです。

25歳を過ぎた頃から、モデル兼介護福祉士としてメディアで扱ってもらえるようになりました。
「介護の現状を教えてほしい」と、いろいろな場所で講演する機会も増えました。
初めはなかなかうまく伝えられず、くやしい思いもしました。
また、介護の話は他人事に感じる人が多く、興味を持って聞いてくれる人はそう多くありませんでした。

それでも、発信し続ければ介護の現状が伝わると信じ、テレビドラマの介護監修や情報番組のコメンテーターといろいろな形で活動を続けていました。
しかし、世の中には介護や福祉以外に音楽やスポーツ、国際問題や環境問題、ありとあらゆるものを、発信力のあるたくさんの人が広めたがっていると気づいたのです。
発信には限界があるとふと感じました。

誰にも何も伝わらなくても、介護の仕組みを変えられる力が欲しいと、研究者の道を考えるようになりました。
2018年から東京大学の研究機関で、介護現場の労働環境の調査研究や公衆衛生やデータヘルスを勉強しています。
政策を考える先生方のヒントとなる論文や、公共の財産になるような情報を発信するため頑張っています。

3100歳まで楽しく生きる人を増やしたい

現在は小規模多機能型居宅介護など2つの介護現場で働いています。

介護現場では人間関係を理由に離職する人が多いです。
私はモデルや介護以外の仕事を経験し、介護業界を客観的に見られるようになりました。
介護の現場は何が課題で、どうしたら良くなるのか。
介護環境を向上させるために他業界の事例を活かし改善につなげていきたいです。
介護職の労働環境が改善すれば、最大限のパフォーマンスで高齢者のケアができると考えます。

私は介護と出会い、人生が豊かになりました。
きっかけは2日間の職業体験でしたが、たくさんのおじいちゃん・おばあちゃんに出会い、感じ、新しい挑戦につなげてきました。
それが自信になりましたし、自分を好きにさせてくれました。
先は長いですが、介護のある全ての人生を豊かにしていきたいと思っています。

中学2年生のときに初めて訪れた介護現場で出会った100歳のおばあちゃんは「今が一番楽しい。生きれば生きるほど人生が楽しい。つらいこともあるけど、時がたてば全部いい思い出になるからね」と話していました。
これからも介護福祉士兼モデルとして、100歳まで楽しく生きる人を増やしていきたいし、私もその一人になりたいです。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年5月)のものです

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