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過ごす時間は少なくても…仕事をする自分に胸を張れるか
私らしい母親としての在り方
【昆虫テクノロジー企業代表・流郷綾乃】

目次
  1. 母と祖母に育てられた幼少期
  2. 祖母の死で気づいた みんなを大切にする生き方
  3. 子どもが80歳になったときに誇れる仕事か?

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、ハエを使って食糧危機問題に挑む株式会社ムスカの代表取締役CEO流郷綾乃さんをご紹介。

やりたいことに一直線な10代でしたが、大好きだった祖母の突然の死で人生観が変わります。2児の母でありながら会社のCEOも務める流郷さんが大切にしている価値観とは。お話を伺いました。

1母と祖母に育てられた幼少期

子どもの頃からマイペースな性格でした。
幼稚園の頃、外で遊ぶために園内から出て靴を履くとき、私が最初に履き始めたのに履き終わるのはクラスで一番遅いなんてこともありました。
他の子に手伝ってもらうこともあるほどでしたね。

幼い頃に両親が離婚し、母親に育てられました。
私がやりたいと言ったことは自由にさせてくれましたが、同時に自分に対する責任はしっかりと持つようにと言われていたように感じます。
母親が一生懸命に仕事をしている姿を見ながら、きちんと責任を持てる人になろうと思いましたね。

私は近くに住む祖母と一緒にいることが多く、祖母が大好きでした。
祖母は人を嫌いになることがほとんどなかったので、騙されることもありました。
そんな祖母は「良いところがない人はいない。だから、良いところを見つけていくんだよ」と教えてくれていました。

幼少期から、週末は祖母と映画館に足を運んでいました。
大好きな祖母と映画を見られるのが楽しくてしょうがありませんでした。
週末に約束があれば友達と遊ぶことはありましたが、自分から約束することはなく、基本的に中学生になってからも祖母と一緒にいましたね。

高校生になってから、祖母の「綾乃がタップダンスをしてくれたらうれしいな」という一言でタップダンスを始めました。
祖母は足が不自由だったので、華麗にステップを刻むタップダンスに憧れがあったんです。

タップダンスを始めたので、部活には入りませんでした。
学校終わりはアルバイトかタップダンス教室に行き、いろいろな世代の人と仕事の話、恋愛の話、子どもの話をしました。
自分の知らない世界の人の話を聞くのが楽しくてしょうがありませんでしたね。

高校2年生のとき、高校のプログラムの留学制度を利用してニュージーランドに2週間ほど滞在しました。
タップダンスを始めてから海外への憧れを感じていたので、とてもワクワクしましたね。
同世代の人たちと会話をしたりして、刺激をもらいました。

高校を卒業した後は大学に行かず、生まれ育った兵庫県神戸市から上京し、1年制の英会話学校に入学しました。
それまで私は母や祖母にやりたいことをやらせてもらいました。
でも、このままずっと甘えていると、いつまでも独り立ちできないと思ったんです。
英会話学校の学費は新聞奨学生制度を利用し、新聞販売店に住み込みで働きながら学校に通いました。

2祖母の死で気づいた みんなを大切にする生き方

夜が明ける前に起きて新聞の朝刊を配り、その後は学校に行って英語の勉強、お店に戻ってきてからは夕刊の配達をする日々でした。
勉強しながらの新聞配達は大変でしたが、1年間働けば学費が免除になるので頑張りましたね。

英会話学校に1年間通った後は留学しようと決めていました。
新聞配達の給料を貯めた分と、家族からの援助を足して行こうと思った矢先、祖父が体調を崩して入院してしまいました。
たぶん、これから大変になるだろうから、私の留学はやめたほうがいいだろう。
母親から資金のことは何も言われませんでしたが、留学は諦めました。

英会話学校を卒業しても神戸に戻らず、東京で複数のアルバイトを掛け持ちしながら生活。
そんなある日、大好きな祖母が亡くなったという連絡が入りました。
祖母は私のような性格ではなく、テキパキと気丈に物事をこなす強いイメージの人でした。
そんな祖母が突然いなくなってしまうなんて、想像がつきませんでした。

それまでの私は自由きままな生活を送っていて、1人で生きているような気になっていたことに気づいたんです。
祖母の死をきっかけに、自分の周りのことを大切にする生き方をしようと決意しました。

一方で、私は祖母に対して、もっとできることがあったんじゃないかと苦悩しました。
そんな状態から抜け出そうと、アロマの勉強を始めました。
アロマの香りは脳にリラックス効果があり、心の状態を和らげると知ったからです。
この時期に子どもを産んでシングルマザーになりました。
そういうこともあり、きちんと稼ぐにはちゃんと就職しないとダメだと思ったので、地元の神戸に戻って就職することにしました。

どんな仕事をしようか考えたとき、収入の多い営業の仕事をしようと思い、業務用のコピー機などを販売するベンチャー企業に入社しました。
仕事をしていく中で、取引先に介護事業所が半数近くを占めていることがわかりました。
アロマは高齢者の認知予防にも役立つと言われていて、介護の現場と相性が良かったんです。
私の学んだアロマの知識が活かせると思い、介護事業所などにアロマ空間を提供するサービスを提案、新規事業として売り出すことになったんです。

いざ始めてみると、私は全く営業電話ができないことを思い知りました。
電話を持つ手が震えるほど。
私に営業はできない、それなら勝手に問い合わせが来るような仕組みを作ればいいんじゃないか。
早速、広報を勉強させてもらい、広報としてメディアの人たちにこのサービスの社会への必要性について説明をするようになりました。
最初は苦労しましたが、徐々にメディア掲載も増えていきました。
ようやく会社に貢献ができたような気がして、ホッとしましたね。

その後、スタートアップ企業を経験し、その会社が東京に進出することになったので、私は神戸に残りフリーランスとしてPRの仕事を始めました。

仕事は順調に増えていき、同時に10以上の案件をこなすこともありました。
ただ、この頃に2人目の子どもが2歳になっていて、仕事と子育てのバランスがとれず、子どもとの時間がとれなくなっていきました。
私は子どものために働いているのに、これでは本末転倒だと思うようになり、仕事を調整するようになりました。

3子どもが80歳になったときに誇れる仕事か?

育児と仕事のバランスを図る中で、私は仕事を選ぶ基準を「子どもたちが80歳になったときに、必要とされている面白い企業か」に定めました。
仕事で子どもとの時間はとれなくても、胸を張って仕事をしていると自分の子どもに言えるかどうかが大切だと思います。
普段仕事に打ち込んでいて、子どもたちと離れた時間を過ごしているからこそ、深く子どもたちのことを考えるようになりました。

その後、フリーランスとして携わっていた株式会社ムスカへ広報戦略として入社し、現在はCEOを務めています。
ハエを使って新しい肥料や飼料を再生産するシステムを使って世界の食糧危機問題に挑んでいて、実現のために日々開発に取り組んでいます。

大切にしているのは、子どもとの距離感です。
なるべく「対等な人」として接するようにしています。

子どもの成長は本当に早いと感じます。
私の見てない間にいろいろな人に会って、自分なりの感覚を得ていることに驚きます。
守らないといけない存在だけど、きちんと人格を持った人なんだなと。
子どもの授業参観に行くと、私と違ってしっかりと自分の意見を言うんです。
リーダーシップを持っている子なんだと感心します。

今の私の母親としての姿と世間の母親像はかなり違います。
果たして子どもたちは幸せなんだろうかと葛藤することがあります。
世間のイメージに苦しむ私を、母はいつも見守ってくれます。
「何がしたいの?」「どうしたいの?」「本当に苦しいならやめたらいいのよ」。
昔の母も今の私と同じような葛藤があったと思うので、本当に的確な言葉をかけてくれますね。

私は20歳から30歳までジェットコースターのような人生を歩んできました。
30歳からはドライビングシートに乗って、ベルトコンベアのように流れてくる未来が最善であるように日々の生活を全うしていこうと思います。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年5月)のものです

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