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戦略的勝ちにこだわる28歳起業家。
動画×インフルエンサー業界No.1への挑戦
【動画マーケ市場を切り開く企業経営者・夏川登志郎】

目次
  1. 常に勝つための研究を
  2. 動画配信を研究・分析するため大学院へ
  3. マイノリティーを攻めていく

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、株式会社CyberLiGの代表を務める夏川登志郎さんをご紹介。

ライブ配信を生業とする「ライバー」のマネジメントや動画マーケティングなどを手掛けている夏川さん。学生時代の読者モデルの活動経験を生かし、27歳で起業しました。人生で大切にしている価値観は「戦略的思考」という夏川さんにお話を伺いました。

1常に勝つための研究を

小学生のときにテニスを始めました。
運動神経が特別良いわけではなかったのですが、負けん気が強かったので、勝つための研究を常にしていました。
効率のいい練習方法を探ったり、対戦相手を調べたりして、戦略的な分析をしていました。
その甲斐あってか、同級生たちとの試合では連戦連勝を重ねていきました。

中学校では、硬式テニスに熱中し、この頃からラケットやシューズなどの用具に興味を持つようになりました。
ちょっとでもライバルに差をつけるために、ラケット雑誌を読んで自分に適したラケットを選んでいましたね。
用具を知っていくうちに、将来はテニスに関わる仕事がしたいと思うようになっていきました。

高校では、もっとテニスに本気で打ち込みたいと思いました。
生まれ育った兵庫県だと遊ぶ場所があって、遊びの誘惑に負けてしまうと思ったので、高知県の山の上にあるテニスの強豪校に進学し、寮生活をすることにしました。

高校のテニス生活は苦悩の日々でした。
自分の身長が伸びなくなる一方で周りの選手はどんどん大きくなったので、練習量を増やしても中学生のときよりも勝てる試合が減っていきました。
ここでも勝つための戦略として、それまで使っていたプロ仕様のラケットから、非力な自分でも使える適正なラケットに選び直し、練習を重ねていきました。
おかげで、最終的には県大会で3位になることができました。

ただ、テニスに打ち込めば打ち込むほど、プレーをすることよりも、ラケットの材質やウエアの素材など、テニス用具に強い興味を持つようになっていきました。
進路選択の頃には、ラケットとウエアを作りたいと思うようになり、首都圏の大学のデザイン学科に進学しました。

しかし、大学の同級生は、高校の美術部に所属したり、高校の美術科を卒業したりしていて、オシャレな人ばかりでした。
僕は高校までテニス一筋の生活をしていたので、オシャレとは無縁な人生。

「このままでは、美的センスで取り残される。オシャレになりたい!」そう思った僕は、オシャレな友達と一緒に原宿へ繰り出すようになりました。
大学でラケットのデザインを学びながら、原宿で服を買ったり、街ゆく人の着こなしを見たりして、美的センスを磨いていく日々を過ごしました。

ある日、友達と表参道を歩いていると、雑誌の編集者の方から街角のオシャレな人を紹介するコーナーに掲載したいという依頼を受けました。
自分が好きで読んでいる雑誌だったので、うれしかったです。
自分が写った写真は好評だったようで、その後何度も雑誌に掲載されるようになりました。
雑誌を見たヘアサロンのスタッフにモデルとしてスカウトされて、雑誌の主要企画にも呼ばれて読者モデルとして活躍するようになっていきました。

2動画配信を研究・分析するため大学院へ

読者モデルとして忙しく活動している頃、周りでは雑誌での活動だけでなく、ブログやツイッターなどで自らの活動を表現するモデルが増えていきました。
すると、ネットで活動する読者モデルに女性のファンがつくようになり、読者モデルのアイドル化が進んでいきました。

読者モデルは同性が憧れる存在なので、異性のファンは多くありません。
ファッション雑誌は基本、同性しか見ないからです。
はじめは、女性ファンを獲得するネットのモデルに対してあまり良いイメージを持っていませんでした。
でも、次第に「雑誌だけで活躍するモデルよりも、ネットでも活躍出来るモデルのほうがカッコいいよね」という風潮になっていきました。

この流れに乗って新しいモデルがどんどんネットから出てきて、読者モデルの活躍の場は減るばかり。
このままだと仕事がなくなってしまうので、活動の舞台を雑誌にとどめるか、ネットに軸を移すか、ずいぶん悩みました。
ネットで活動することへの恥ずかしさや抵抗感もあったので、なかなかネットでの活動に踏み出せなかったんです。

でも、このまま埋もれたくなかったので、ツイッターなどで自分の活動を紹介するほうに舵を切っていきました。
このとき人気だったのは、動画配信ツールを使うモデル。
動画で配信をするのは当初は抵抗がありましたが、当時流行していたライブ配信を腹をくくって一度やってみると、1回の配信でフォロワーが100人増えました。
面白い、と思ったのと同時に、ネットは力を持っていてこれからの時代もっと来ると感じましたね。

動画配信をもっと理論的に研究・分析をしてみたいと思い、大学卒業後は就職せずに、大学院に進みました。
この大学院は、学内にとどまって研究するというよりも、外に出て実際に活動して、多角的に研究することを認めていました。
大学を出て社会人としていきなり活動するよりは、ネットの分野を深掘り出来るかもしれないと思いました。

大学院では、ネットを通じたインフルエンサー活動を研究しました。
YouTubeでの動画配信活動のほか、毎日、ライブ配信した映像を分析し、どんな時間に配信すればどんな人が来るのか、どんな属性の人がいるのか、どんな心理のときにコメントを残すのか、多角的にデータを集めてライブ配信のトレンドを追っていきました。
こうした分野の研究は、先行事例がほぼなかったので、先駆者なれるかもしれないとワクワクしながら研究していました。

3マイノリティーを攻めていく

大学院で研究を進めるうちに、ネットを主軸に個人で活動するインフルエンサーは賞味期限が非常に短く、時代と共に淘汰されてしまうという課題を感じるようになりました。
学生時代に一緒に活動していた人たちのほとんどは活動を辞めてしまっていました。
この課題を解決するには、インフルエンサーを職業にすることが必要だと思い、インフルエンサーの育成事業を行いたいと思うようになりました。

まずは、大学院で学んだことを、よりリアルな場所でインプットしたいと思い、大学院卒業後、ライブ配信を運営している会社にアルバイトとして入り、アプリ開発に携わりました。
しかし、僕にとってアプリ開発はハードルが高いことを痛感しました。
僕はライブ配信のアプリを作るよりも、アプリの利用者をインフルエンサーとして育成するほうが向いているのかもしれないと気づき、アプリを作るよりも、動画配信者側への思いが強くなっていきました。

アルバイトを数ヶ月した後、新卒として大手IT企業に入り、動画配信事業を展開する部署に配属されました。
そこではマーケティングや組織作りを学びました。
その後、社内のビジネスコンテストで社長に提案した事業が認められ、社内起業することを決めました。

その後、27歳のときに子会社として株式会社CyberLiGを立ち上げ、現在に至るまで代表取締役を務めています。
業務内容は「ライバー」と呼ばれるライブ配信を生業とする人やインフルエンサーのマネジメント・企画制作などです。
企業のインスタグラムアカウントの運用やタレントのYouTube運用のお手伝いもしています。

会社を立ち上げてまだ1年ほどですが、これからネット発の有名人をもっと多く育成していきたいと思っています。
ネットを使った配信サービスも、今後、どんどん登場してくると思うので、一つのサービスに縛られずに、柔軟な考えを持って、時代ごとのトレンドをしっかりキャッチして先駆者となれるように頑張りたいと思っています。

僕は、ずっと自身の能力は高くないと思っていて、どんな場面でも戦略的に組み立てていかないと他の人には勝てないと思っていました。
みんなと同じ努力をしても勝てない。
だからこそ、スポーツもキャリアも戦略的に分析して勝負をしています。

そのために大事にしている考えが「マイノリティー・少数派」を攻めることです。
王道を行きすぎるとライバルが多いので、勝てるポジションを探すことが大事です。
そのポジションに需要があるかどうかをきちんと見極めて攻めていけば、実力以上の立ち位置に行ける有効な手段になると思います。

今後の目標は、会社としてチームとしてやるからには、トレンドを追うだけでなく、動画×インフルエンサー業界No.1を目指していきたいです。
大手IT企業の子会社としての立場も最大限に生かしつつ、勝ちにこだわっていきたいですね。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年4月)のものです

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