シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

たこ焼き300万個が教えてくれた
人生こそ最大のエンターテインメント
【おはぎ専門店/飲食店運営・プロデュース・落合裕一】

目次
  1. 頑張っていれば誰かが見てくれる
  2. 食で世の中をもっと明るく
  3. 人生が最大のエンターテインメント

人はどのようにして大切にしたい価値観に気づき、人生の軸を見つけるのか。各界で活躍する方の人生ストーリーから紐解きます。今回は、愛知県を中心に、おはぎ専門店をはじめ、飲食店の運営やプロデュースを手掛ける落合裕一さんをご紹介。

大学生の時、たこ焼き職人の頂点に輝いた落合さん。好奇心とワクワクの連続の人生を歩んできました。そんな落合さんの思いとは。お話を伺いました。

1頑張っていれば誰かが見てくれる

冒険に憧れる子どもで、行ったことがない場所に行く開拓精神がありました。
小学校の日誌には「探検家になる」と書いていましたね。
一方で、小さいときから、どう生きるか、どう死ぬかを考える哲学的な一面も持っていました。
子どもながらに悩んでいましたね。

野球をしていて、ポジションは投手でしたが、肩を壊してしまい、中学生でやめてしまいました。
高校ではサッカー部に入りました。
サッカー経験ゼロからのスタートだったので、たくさん練習しました。
練習の前にグラウンドを走るのが部の習慣でしたが、経験不足をカバーしようと、毎回、他の人の倍の距離を走っていました。
しかし、小学生・中学生からやっている他に部員たちには技術的にかなわず、公式戦には出ることなく、ずっとベンチを温めていましたね。

迎えたサッカー部の引退式でのスピーチでの出来事。
私は後輩たちに向けて、練習時のエピソードを話しました。
すると、多くの後輩部員が号泣してくれたんです。
後輩たちはきっと、私の走る姿を見てくれていたんだと思います。
試合に出られなくても、頑張っていれば誰かが見てくれている。
人の役に立っているんだなと思いましたね。

高校の部活の経験は大きな財産になりました。

大学生になって、たこ焼き屋チェーンでアルバイトを始めました。
子どものときに行った縁日で、たこ焼きを焼く職人がカッコいいという記憶があって、自分でもたこ焼きを焼いてみたいと思ったからです。
しかし、いざバイトを始めたものの全く使い物にならず、業務は皿洗いや接客ばかり。
たこ焼きを焼かせてもらえない日々が続きました。

半年ほどたって、ようやくたこ焼きを焼かせてもらえるようになりました。
これまでたこ焼きを焼けなかった想いから、たこ焼きへの情熱が爆発。
人生で最後の晩餐に食べるのが、このたこ焼きで良かったと思えるような最高のたこ焼きを作ろうと、1個1個のたこ焼き作りに魂を込めました。

「落合のたこ焼きはパフォーマンスが凄い。しかも美味しい」と社内でも評判になり、チェーン店のたこ焼きコンテストで、グランプリを獲得するまでになりました。

4年ほどバイト経験を重ねた2005年、アメリカのニューヨークに催事出店する計画が持ち上がりました。
ニューヨークで行うたこ焼きのデモンストレーションでたこ焼きを職人を社内で選ぶことになり、1,000人ほどの職人の中から私が選ばれたんです。
これはちゃんと準備しないといけないと思い、大学を休学して技術を磨きました。
そして、アメリカ西海岸〜東海岸まで各地でたくさんのたこ焼きを焼きましたね。

ニューヨークのイーストビレッジで行われるデモンストレーションでは、たこ焼きを焼く前に、サプライズでスピーチをしようと思い立ちました。
せっかくなら社史に残るスピーチがしたいと思い、徹夜で考えた日本語のスピーチを英語に訳してもらいました。
その中の一節で「夢が人を動かし、人が人を動かし、人が夢を叶える」と話したことは今でも鮮明に覚えていますね。

たこ焼き作りも大成功を収め、現地のスタジアムでたこ焼きを作ってほしいとスカウトも来ました。
努力をし続ければ夢が叶うってこういうことなんだ!と実感しましたね。

2食で世の中をもっと明るく

就職の時期になって、周りの人たちは、私がこのままたこ焼きチェーンに就職すると思っていました。
しかし、私は大学の5年間で、たこ焼き職人としては限界までスキルを上げたと自負していました。
おそらく5年間で約300万個のたこ焼きを作ったと思います。
このまま就職しても伸びしろがないと、悩んだ末、就職はしませんでした。

学生時代は、ほぼ全ての時間をたこ焼き作りに捧げていたので、就職活動をしていませんでした。
このままだと社会を知らないまま就職することになる、もっと社会のいろんな情報が得られるところで働きたいと思い、就職活動をしました。
卒業1ヶ月前になって、地元のテレビ局が話を聞いてくれるということで、面接に行ったところ、私の経歴を面白がってくれたんです。
結局、これが決め手となって、テレビ局に就職することができました。

報道番組のアシスタントディレクターとして働いていた頃、人質を取った男が猟銃を持って立てこもる事件がありました。
この時、警察の特殊部隊の1人が犯人に撃たれて亡くなりました。
その人が僕の知人だったことを知り、ショックを受けました。
こうした報道も大事だけど、私はもっと世の中が明るくなるような話題を発信したいと思うようになりました。

テレビ番組の企画を考えるために下調べをしていたとき、日本の出版業界が欧米諸国に比べて衰退しているという話を聞きました。
出版業界の衰退は国力の衰退に繋がるという大学教授の話も聞きました。
子どもたちの感性を豊かにするには、本は欠かせません。
子どもたちの未来のために、出版業界から明るい話題を発信したいと感じ、テレビ局を2年で辞めて転職しました。

転職先は出版社と書店などを仲介する大手の流通業者で、地域の書店さんをコンサルティングしたり、アメリカの大手ネット通販の窓口担当にもなりました。
慣れない仕事でしたが、結果を残そうと必死にネット通販の仕組みなどを学びました。
この頃から起業にも興味を持ち始め、経営塾にも通い出しました。

出版業界で9年働いた後はIT企業を経て、2016年8月3日に起業しました。
起業の一番のキッカケは、たこ焼きの経験から、くらしのすきまをあたためたい、食で人々を感動させたい、食の再定義を図ろう!と思ったからです。

3人生が最大のエンターテインメント

現在はおはぎ専門店の運営、カフェレストランや飲食店のプロデュースも手掛けています。

今後は、飲食業界に関わる人たちの悩みを解決し、クリエティブな仕事の機会、楽しさを伝えたいです。
会社のミッションの一つにあるのが「昔話の桃太郎のエンディングを変える」です。
これまでの話は、桃太郎たちが鬼ヶ島に行って鬼を退治していましたが、これからの時代、単純に善悪で物事を片付けるのは違うと思うんです。
桃太郎が鬼にきびだんごをあげて、鬼も笑顔になる。
そんなハッピーエンドがあってもいいじゃないですか。

飲食業界も同様に、提供する人もされる人もみんながハッピーになれるような仕組みを追い続けていきたいです。

私は、人生が最大のエンターテインメントだと思っています。
今までやりたいこと、好きなことをして生きてきましたが、その時に自分がどんな姿勢でいるか大切だと思っています。
いまは深い関わりがない人でも、最終的には、自分を応援する人になるかもしれない。
自分のファンを獲得することはとても重要なんです。

世の中には、自分が夢中になれるチャンスがたくさん転がっています。
でも、好奇心がないと、そのチャンスは見つけることはできません。
常に好奇心を持って見えないチャンスを見つける努力をすることが大切だと思います。

チャンスが見えるようになるには、好奇心を持つだけでなく、自分に与えられた目の前の仕事や役割を一生懸命こなすことが大事です。
特に仕事は一生懸命やらないと、何かの時に同僚や先輩の協力や信頼を得られません。
逆に困っている後輩には相談に乗るなどして、人の役に立つ行動を心がけていますね。

そうした行動を心がけていると、次のステップに行くとき、周りが応援してくれます。
私は、会社を立ち上げてから前職の方々と違った形で関わることが出来ています。
前職できっちり仕事をしたからだと思いますが、ありがたいですね。

私の原動力は強烈な好奇心です。
たこ焼き屋でのバイトも、人が簡単に経験できないことを経験したいというタフな好奇心があったからこそ、夢中になって極めることが出来ました。

人生の中には嫌な出来事もあります。
でも、この出来事がなければもっと悪いことが起きたかもしれない、もっといい出来事への布石だろうなと思えれば、ポジティブに楽しい人生が送れるのではないでしょうか。

キャリアの道筋が分からないと悩む若者から相談を受けることもあります。
でも、その悩みは次の自分の良い気づきになります。
今は想い描いてない人生かもしれないけど、次のいい人生のキッカケになるかもしれません。

ある童話で、人間は死ぬときにどれだけ賛辞されて送り出してもらえるかが重要だと書かれていました。
私はいろんな人に賛辞されて、死ぬときはガッツポーズをするような人生を送りたいと思っています。

※掲載している情報は、記事執筆時点(2020年3月)のものです

この記事は役に立ちましたか?
はい いいえ
ご協力ありがとうございました
Related Stories

関連ストーリー

この記事を読んでいる人は、こんな記事も読んでいます
シェアする
Twitterでシェア Facebookでシェア

マイマガジン

旬な情報をお届け!随時、新規ジャンル拡充中!